キューバ危機打開に向けて、米国大統領ケネディが、海上封鎖でソ連の出方を探るという方針を国民に示して2日後の1962年10月24日朝、ホワイトハウスは緊張に包まれていた。
複数のソ連の船舶が海上封鎖をあざ笑うかのように、封鎖線突破の動きを見せていた。フルシチョフに警告は通じないのか。判断は間違っていたのか。危機は最高潮に達する。
数分後、6隻のソ連船が封鎖線直前で停止し、引き返し始めたとの情報が入った。とりあえずの危機は回避されたのだ。
この前後、ソ連首相のフルシチョフとケネディは、弟ロバート(司法長官)と駐米ソ連大使を通じて、精力的に書簡を往復させ意見交換を していた。
「われわれは、ミサイルは搬入したが、米国攻撃の意図はない」と、フルシチョフ。
「米国こそ(ビッグス湾事件のような)キューバ侵攻を繰り返さないと約束すべきだ」
さらに、ソ連は、米国がモスクワ牽制のためにトルコに配備したミサイルの撤去を要求し、ケネディは国民には極秘で合意した。
フルシチョフは、「トルコのミサイルに関する合意の秘密は守る」とケネディの憂慮を解いた上で、10月27日朝、キューバからのミサイル撤去を通告してきた。米軍部の反発を考慮しての裏取引だった。
大統領の意を受けて奔走したロバートは、「相手の立場に立って考えることが重要だった」と危機の13日間を振り返っている。
ケネディは、必ずしも一枚岩ではないソ連指導部内でのフルシチョフの立場を気遣い、秘密合意で面子を立てる。
一方のフルシチョフは、ロバートから、状況が長引けば大統領が軍部を制御できなくなると訴えられ、「私はその危険を見落とさなかった」(『回想録』)と、決断の背景を打ち明けている。
危機回避後、両首脳間にホットラインが設けられ、翌年8月には、部分的核実験停止条約が調印されることになる。
「戦いは、五分の勝利をもって上とし、七分を中とし、十分をもって下とす」(武田信玄)
軍部が主張した空爆、上陸侵攻による十分の勝利ではなく、妥協による五分の勝利が、平和共存への道を開いた。
しかし、やがてケネディ兄弟は相次いで国内不満分子の手で暗殺され、フルシチョフは、政争に敗れ幽閉されて生涯を閉じる。
相手を配慮する危機回避の知恵は皮肉にも、「五分の勝利」を受け入れられない互いの国内の不満から力によって踏みにじられ、冷戦下の体制競争と対立は、それから約30年、ソ連崩壊まで続くことになる。