ザマでの大敗北でカルタゴの命運も尽きたかに思われた。しかし、その後、半世紀にわたり商業国家として生き残った要因は、ハンニバルによる速やかな敗戦処理と、勝者ローマの寛容にあった。
ハンニバルは、首都の都城に立て籠っての戦争継続を主張するカルタゴ元老院を説き伏せ講和文書に署名させた。五十年年賦による過酷な賠償金支払いと、一切の交戦権の放棄という屈辱と引き換えではあったが。日本の戦後によく似ている。
政治家に変身したハンニバルは、行政長官として財政改革に取り組むが、有産階級への課税強化が貴族層の反発を招く。
国外退去を余儀なくされた彼は、地中海世界で拡大を続けるローマに唯一抵抗する東地中海のシリアに捲土重来を期して身を寄せる。
そのシリアもローマに敗れ、ハンニバルは逃亡先の黒海沿岸の王国、ビテュニアで毒杯をあおって生を閉じる。紀元前183年。彼がイタリアに侵入して35年後のことである。
いまわの際に、「ローマが、このおいぼれの死を待ち望むなら、ローマの心配の種をここで永遠に解いてやろう」と言い残したという。
勝者のスキピオも奇しくも同じ年にこの世を去る。ローマの政争で戦時中の公金横領の濡れ衣を着せられ、失意のうちの死であった。
スキピオは、その遺骸をローマ領内に葬ることを拒絶した。そして遺言した。
「恩知らずのローマよ。お前は決してわが骨をもつことはないであろう」と。
今や地中海世界の「一強」へとのし上がりつつあるローマにその運命を翻弄された敵と味方、二人の名将の最期であった。
軍事力を放棄して一強ローマに生殺与奪を託し、経済力なら戦前に劣らず復興を果たしたカルタゴにも、やがて最期のときが来る。
カルタゴ憎しの一念に取り憑かれたローマ政界の雄、大カトーの説く「カルタゴ不要論」が世論を席巻し、カルタゴ都城を取り巻いたローマ軍によって、カルタゴはこの世から永遠に姿を消した。紀元前146年のことである。
ローマ軍の将は、スキピオの息子の養子、スキピオ・エミリアヌス。陥落するカルタゴを前にして彼は嘆く。
「今、私の胸を占めているのは勝者の喜びではない。いつかはわがローマも、これと同じときを迎えるだろうという哀感なのだ」
それから数世紀を経て、帝国となったローマは東西に分裂し、哀れな姿をさらす。
ライバルを消せばやがて自らも消える運命となる。一強の驕りは、世の常である。