20世紀終盤の歴史の節目に、ハンガリー首脳部が、冷戦の終焉という変革の流れを見極め、国を救ったことは前回までに書いた。
一方、19世紀に西欧列強の帝国主義圧力がアジアを襲う。中国は近代化に遅れ、国際競争から脱落していった。一般にそう信じられている。しかし実は中国の政界に、時代を読み日本に先駆けて近代化を志向しながら、保守派の抵抗に遭い、挫折した一人の“巨人政治家”がいた。
その名を李鴻章(り こうしょう)という。
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「東学党の乱」という朝鮮農民の反乱に端を発して、日本と清国(中国)が朝鮮に対する事実上の保護権をかけて戦った日清戦争(1894−95年)は、不利を伝えられた日本陸、海軍の快進撃で日本の勝利に終わった。
1895年3月19日、講和会議が開かれる下関に、清国全権の北洋大臣直隷総督・李鴻章が到着した。
日本側全権を担う首相の伊藤博文、外相の陸奥宗光と翌日、料亭「春帆楼」で相対した72歳の李鴻章は、「古希を越えた年齢に似合わず状貌魁偉(じょうぼうかいい)、言語爽快」の印象を陸奥に与えている。威風堂々、とても敗戦国の代表に見えなかった。
会議の冒頭、李鴻章は、日本の近代化の成果と、伊藤の指導力を褒め上げて、告げる。
「西洋の強国は日ごと、東アジアを狙い押し寄せている。われわれアジア人同士、一心協力する必要がある。今回の戦争が、今後の同盟を妨げるものではない」
さて、どうお考えか? と李は問いかけたのである。
陸奥は、「日清同盟を説くことで同情を買い、講和条件を有利に導こうとする老練な交渉術だ」と、一顧だにしなかった。
李鴻章は、アヘン戦争に始まる西欧列強の軍事力を背景にした外交的無理難題を経験し、高級官僚として軍を率い、太平天国の乱という内乱鎮圧に奔走してきた。
その中で、李は攘夷の雰囲気に包まれ有効な対抗策を打ち出せない清朝末期の宮廷を説得して、西洋先進文物を積極的に取り入れる「洋務運動」に取り組み、日本に先駆けて軍備の西洋化を進めてきた。
彼にとり、祖国の政治分野における近代化の遅れは、国を挙げて近代化に進む明治日本と比べ、何とも歯がゆい思いを抱いたであろうことは間違いない。
講和交渉に祖国の命運をかけ下関に乗り込んできた李鴻章だが、一発の凶弾が彼を襲う。