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- 挑戦の決断(28) 天然痘パンデミックからの復興(聖武天皇)
「責めは予ひとりにあり」
奈良東大寺境内の東部、小高い丘の中腹にある二月堂では、今年も3月に十四日間にわたり修二会(しゅにえ)の行法が営まれた。「お水取り」の名で親しまれている仏教行事で、天平勝宝4年(752年)に始められて以来、一年も欠かさず行われてきた。
初夜という夜の行事で大導師は本尊の十一面観音に向かい祈り事を唱える。今年は特別に「コロナ禍からの復興」の願いが付け加えられた。国家鎮護、五穀豊穣を祈る修二会だが、1270年という長い歴史の入り口で、新型コロナとは比べ物にならないほどの惨禍をもたらした天然痘パンデミック(大流行)との戦いと復興の記憶がとどめられている。
天平7年(735年)、九州太宰府から流行し始めた天然痘はまたたくまに全国に広がり、二年後に収束するまでに、全国で100万〜150万人の死者を出した。当時の総人口の25〜35%の人口が失われるという世界史的にも例のない事態だった。流行の前年には、畿内を中心に大地震が発生し、日照りによる凶作も手伝って混乱が続くさなかに追い打ちをかけられた格好だった。
国家存亡の危機に対応を迫られたのは聖武天皇である。古代においては〈天災、飢饉が起きるのは為政者に徳がないため〉と見るのが常識だった。聖武は、混乱の中で詔(みことのり)を発して苦しい心中を吐露している。
「責めは予ひとりにあり(その責任は私一人にある)」。そして対策に乗り出す。
民を安んじるために
天災、疫病流行に為政者の責任があるわけではないが、適切な対応は為政者の責任である。今回の新型コロナでも、病床の確保、ワクチンの適切な分配に右往左往し、甚大な被害を受けている飲食業界への小出しの支援に、国民は呆れている。まさに政府の有効で迅速な対応が見えない。「責めは予ひとりにあり」の覚悟が見えない。伝わってこない。
古代天皇制においても、権力が集中しているが故に、天皇と朝廷の責任は重い。聖武の叔母で先代の元正(げんしょう)天皇は、即位にあたり詔で表明している。口語訳で紹介する。
〈国家が隆盛、安泰であるためには、まず人民を豊かにすることが必要である。人民を豊かにするためには、政治の視点を人民の経済に向けることだ。衣食が足りて家ににぎわいがあれば、刑罰を適用することがなくても太平の世となる〉
収束の兆しが見えないコロナ禍の責任は、飲食の場での酒の提供にあると決めつけ、罰則と圧力で飲食業者をコントロールしようとした、どこかの大臣に聞かせてやりたいものだ。
聖武が目を向けたのは、民を安んじること、民生の安定だった。当時の経済の中心は農業生産である。その担い手の農民は激減し、農地は荒廃している。また、農地を放棄する流浪民も増加した。流浪民が増えると犯罪も増える。悪循環を断つには農民を定着させて経済を安定させることが肝要だ。
そう考えた聖武は、まず流浪民の定着に向けては、流れ着いた先での住居登録を認める。当時の国が導入した律令制度では、国家所有の土地の耕作権を農民に分け与えて租税を収めさせる(班田収授法)のが原則だったが、困窮度に合わせて租税の減免措置をとる。さらに、新たに開墾した農地に関しては、条件付きで永代私有を認め、農民の意欲を喚起した。そして無料での医療を施す。
官僚の多くと、天皇を支える議政職にあった藤原四兄弟も天然痘の犠牲となり、朝廷は機能不全に陥っていたため、復興策の歩みに時間がかかったが、民を安んじるという政策目標が明確だった。であればこそ、やがて軌道に乗る。
国民一丸の闘い
聖武が復興策のもう一つの柱にしたのが、仏教の振興による民心の安定だ。全国に国分寺と国分尼寺を建て、首都平城京の一角に東大寺を建てて、大仏建立を目指した。これについては、復興に振り向けるべき財源を圧迫したとの批判も根強い。
しかし、聖武には、寺院建設にもう一つの狙いがあった。復興に不可欠な「国民一丸」の結束を、仏教という精神的支えを核に成し遂げようと試みた。その大仏造像の資金と労役の勧進役には、民衆の中に入り、開墾、用水路、橋づくりに奮闘していた民間僧の行基(ぎょうき)を抜擢して民衆の支持を集める。そして、大仏づくりに大衆の参加を呼びかける。
「労役を担えないならば、ひと枝の草、ひと握りの土でもよいから寄進を」
そして50万人の労働奉仕で大仏(盧舎那仏)は完成する。
天然痘収束から15年後の三月、「悪疫退散」を願う二月堂修二会は始まり、翌月には大仏開眼会(かいげんえ)が行われた。
天然痘パンデミックを乗り越えた証(あかし)として。今見る大仏と修二会は、単なる観光遺産ではない。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『聖武天皇と仏都平城京』吉川真司著 講談社学術文庫
『東大寺のなりたち』森本公誠著 岩波新書