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- 故事成語に学ぶ(8)忠言は耳に逆らいて行いに利あり
身内に甘い漢の文帝
英傑・劉邦(りゅうほう)が秦末の乱世を勝ち抜いて開いた漢王朝は、劉邦亡き後、しばらく混乱が続いた。創業者が偉大であればあるほど、代替わりでの権力争いは熾烈となる。短命の帝王が続いた後、5代目を襲った文帝は劉邦の四男だった。
この文帝が身内に甘かった。劉邦には属国の趙の王室の女と一夜の契りで産ませた子がいた。名を長という。後に趙王一族は謀反に連座して逮捕されるが、劉邦は、長を淮南(わいなん)王に立てた。やがて文帝が帝位につくと、淮南王は、驕り高ぶった。正統な帝室の一員ではないとはいえ、創業者の子であり、文帝の弟に当たる。「おれは皇帝に一番近い」と豪語し、漢の法令を無視し気ままな振る舞いを続け。かつて母を捕らえた官吏を撲殺する始末。文帝もこれを座視した。
優柔不断は事態を悪化させる
やがて淮南王・長は、「帝室を乗っ取る」と謀反の準備まで始めた。文帝の側近たちは繰り返し王を捕縛、処分するように必死に意見したが、文帝は、「王に法を適用するに忍びない。よきにはからえ」と自分の判断を示さなかった。列侯たちの評議で「謀反の疑いは間違いない。法に基づき死罪が適当」と決まっても、「死罪をゆるし、王位剥奪でよいではないか」と罪の減免を指示した。
淮南王は隠居所への護送途中、食事を与えられずに死んだ。文帝は、これに慌てて、犯罪者でありながら丁重に陵墓に葬り、遺児たちを諸侯に封じた。
文帝の真意はわからないが、創業者である父劉邦の人物判断に逆らう勇気がなかったとしか思えない。国を統治する責任者としての職責放棄である。身内に対して法令が遵守されない特例をつくると、誰もが法令を守らなくなる。統治力を自ら失うことになる。
果たして、淮南に封じられた長の子、そして孫は、漢の法令を守らず、「父を見殺しにした文帝はゆるさない」と謀反の準備を着々と進めた。
その間、側近たちは繰り返し、「謀反の危険」を訴えたが、文帝は聞く耳を持たなかった。その忠言の一つが、淮南王の身内から寄せられた。その中に書かれていたのが表題の言葉。
「毒薬は口に苦いけれども病には効き目があります。忠言は聞きづらいかもしれないけれども今後の言動に効果があるのですよ」
子供に諭すような言葉だった。
賢帝か愚帝か
結局、謀反は側近たちの奔走で未然に防がれ、淮南王・長の遺児一族は皆殺しとなった。親子三代にわたる回り道となった。
争いごとを嫌った文帝の統治時代は、息子の景帝の時代と合わせて、「文景の治」として称えられている。しかし彼の優柔不断さが、呉楚七国の乱という大内乱を招いている。賢帝か?あるいは愚帝か。
『史記』ではこの逸話を締めくくって司馬遷はこんな奇妙な評を書いている。「(ことが起きたのは)淮南の浮薄で、乱を起こすのを好む気風のせいだ」と。
司馬遷は、漢の帝室の指示で公式史書として史記を著した。皇帝たちの悪口など書けるはずはない。彼が本当に伝えたかったのは、彼が書き綴った事実にこめられている。
これが史記の読み方なのだ。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『世界文学大系5B 史記★★』司馬遷著、小竹文夫・小竹武夫訳 筑摩書房
『中国古典名言事典』諸橋轍次著 講談社学術文庫