足利尊氏(あしかが・たかうじ)は、弟・足利直義(あしかが・ただよし)との武力抗争に敗れたものの、忠臣の高師直(こうの・もろなお)を文字通りに切り捨てることで京に戻り、直義との和解を工作する。
しかし、尊氏は敗軍の将とは思えぬほど強気だった。元はといえば、兄弟喧嘩のきっかけは、直義が反りの合わない高師直の排除を目指し、尊氏は直義が養子として匿う実子の直冬(ただふゆ)の征討を狙ったものだった。ねじれた構図でのいがみ合いで、兄弟が互いを敵視したわけではなかった。
戦いが終わってみれば、「私が将軍である」と権威を振りかざす兄に弟が強気に出られるわけもない。
尊氏は後継者である嫡男の義詮(よしあきら)とともに直義を圧迫する。尊氏は宿敵であるはずの南朝方と形だけの和解を成立させて、直義追討の宣旨を得る。直義は、北陸へ逃れ、鎌倉に逃げ落ちたが、相模で幕府軍に敗れる。冷酷な兄が手を回して毒殺された。
直義の死は、正平7年(1352年)2月26日、奇しくも高師直の一周忌の日だった。
室町幕府の政治権力は、師直がそれを目指して忠節を尽くし、奮闘したように、尊氏・義詮の足利宗家に一元化、強化された。ただし、北朝を立てて政権を樹立した尊氏が南朝と交わした政治的妥協によって、半世紀にわたり南北朝対立という桎梏を負うことになる。
ナンバー2としての師直が奮闘した、天皇家、寺社の勢力を抑えての安定した武家による政治への改革は道半ばであった。
しかし、師直の功績は歴史から消える。この時代を“勝者”足利家の視点で描いた軍記文学「太平記」では、高師直は「悪辣非道な悪玉」として描かれている。さもなければ、動乱期をともに戦った戦友であり功臣の師直と一族を皆殺しにした理屈が立たないのだ。
創業家の社史から、奮闘する番頭の姿は消された。勝者が書く歴史とは、いつの時代も、そういうものだ。
太平記の高師直像は、現在も引きずる。人形浄瑠璃・歌舞伎の人気演目である「仮名手本忠臣蔵」では、赤穂浪士の物語が室町時代を舞台に翻案され、塩冶判官(えんや・ほうがん)の妻に対する女好き高師直の横恋慕が復讐劇の発端となっている。
観客は今も、師直の横暴に憤り続ける。
武力(営業力)に秀でて、理想実現の企画力に優れ、絶対の忠誠心あればこそ、オーナーに頼られたナンバー2。オーナー家のお家騒動への距離のとり方、つまり政治力を発揮するには余りに愚直でありすぎたゆえの悲劇であった。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
参考文献
『太平記1-3(日本古典文学大系)』岩波書店
『高師直』亀田俊和著 吉川弘文館
『足利尊氏と直義』峰岸純夫著 吉川弘文館
『南北朝の動乱(日本の歴史9)』佐藤進一著 中公文庫