古代の土地公有制度の劣化
源頼朝(みなもと・よりとも)というと、華々しい源平合戦を思い浮かべる。父の義朝(よしとも)を平氏に殺された恨みの戦いの帰結としての鎌倉幕府成立史が大河ドラマでは描かれる。しかし、実際には頼朝の功績は、矛盾が噴出していた土地公有制を原則とする古代律令制度の経済矛盾を見抜き時代を動かした点で傑出した政治家の側面にある。
7世紀の天武天皇が確立した律令制度においては、土地はすべて天皇のもので、農民には一代限りでその土地の耕作権を授けられた。奈良時代に入ると、耕作の生産性を上げるインセンティブとして、開墾地については永代の私有が認められるようになり、原則が崩れ始める。
資金豊富な貴族や有力寺社が積極的に地方の未開墾地の開拓に乗り出し、「荘園」として経営をはじめる。地方の豪族は、当初、中央から派遣される国司の任命官として租税(年貢)の取り立て、上納を担っていたが、平安時代後期になると、東国で一大開拓ブームが起きて豪族も私有地を獲得し始める。周辺の国有地も武力をもって私有化し、土地を国司から守るため、名義上、有力貴族、寺社に寄進した形をとって、このスポンサーの政治力を背景に、地権の安定化に走る。
12世紀後半には、東国の場合、荘園は全土地の5割を占める。国司も四年の任期で、管理する国有地からの年貢を上乗せして私腹を肥やすことに熱中する。土地の所有権を巡る争いも絶えず、国の土地政策は崩壊の危機に直面する。
地方豪族の利害に寄り添う
さらに武力を持つ東国の開拓豪族(武士団)は、朝廷から反乱鎮圧に駆り出されることも度々で、褒賞は少なく、ほぼ、ただ働きだったことも武士たちの不満を高めていた。彼らは主張を通すために、中央にも顔のきく棟梁(親分)を求めていた。白羽の矢が立ったのは、父義朝の失脚で伊豆へ流されていた皇室の血を引く頼朝だったというわけだ。
頼朝は、関東武士たちの不満を聞き、ことの本質を理解した。彼らの領地安堵のために中央と交渉し、必要以上の租税収奪を防ぎ、兵の借り出しには代償を払わせるべく動く。
さらに、頼朝と親分子分の契りを結び戦いに従軍した御家人(ごけにん)たちには、打ち破った敵の領地を恩賞として分け与える。関東武士にしてみれば、武士の利害に関して、「話のわかる親分」だったのだ。そして、頼朝は固い絆と信頼関係で結ばれた主従関係を基礎に平家との政権をかけた戦いを勝利に導く。
清盛が成し遂げられなかったもの
戦争と言わずとも、あらゆる闘争、競争において、主従の信頼関係ほど心強い味方はない。働きに応じた褒賞を与えることこそ勝敗を分けるカギだ。経済利害一致のウインウイン関係を結べれば、部下は死に物狂いで働く。
源氏との戦いに敗れた平家にしても決して武力で劣っていたわけではない。畿内、瀬戸内に展開する強力な武士団を従えていた。源氏軍の主力を担った関東武士にしても本来は、伊豆の北条氏をはじめ大半が平氏一門なのである。しかし、平清盛(たいら・きよもり)が見届けることなく、一族は畿内で敗れ、瀬戸内に散った。何が足りなかったのか。
策略家である後白河法皇との政治闘争に勝った清盛には、平氏政権安定のための戦略があった。
全国の地方を、平氏一門の知行国とし、支配することだった。清盛の絶頂期には、全国の半分にあたる三十三か国で知行国主(国司)を独占している。その支配構図は、古代から連綿として続き機能不全に陥っていたシステムだった。国司が朝廷の貴族から、平氏一門に置き換わっただけだった。
頼朝が開いた鎌倉幕府は、時代変化についていけない朝廷貴族政治を終わらせ、武士支配の政治を室町、江戸時代へと繋いでいくことになる。時代の一大転機を先取りしていた。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『日本の歴史 6 武士の登場』竹内理三著 中公文庫
『日本の歴史 7 鎌倉幕府』石井進著 中公文庫
『平清盛 天皇に翻弄された平氏一族』武光誠著 平凡社新書