■伝統の「足踏み洗濯」
岡山県北部の山中に湧く奥津温泉は、JR岡山駅から車で2時間ほどの距離にある静かな温泉地。県内の湯原温泉、湯郷温泉とともに「美作三湯」と呼ばれる。
江戸時代に津山藩の湯治場として栄えたという温泉街には、繁華街などはなく、数軒の温泉宿がひっそりと佇む。浴衣客がそぞろ歩く賑やかな温泉街もいいが、ひっそりとした温泉街も情緒がある。
奥津温泉の名が広く世に知られるようになったのは、直木賞作家である藤原審爾の小説『秋津温泉』の舞台となったのがきっかけ。秋津温泉は、奥津温泉がモデルの架空の地名で、1962年に映画化された際には、奥津温泉でロケも敢行されたという。
温泉街を流れる吉井川の畔には、「洗濯湯」と呼ばれる露天風呂があり、その温泉を使って行われる「足踏み洗濯」は、奥津温泉独自の風習として知られる。かつての温泉街の女性は、森に生息していた熊や狼に襲われないように、立ったままの姿勢で周囲を見張りながら、足の指や裏で衣服を洗っていたという。現在では、観光客向けに実演されている。
■岩間から湧き出す透明湯
その「洗濯湯」を見下ろすように建っているのが、「奥津荘」。創業90年余の歴史の深い宿は、趣のある木造建築で、風情たっぷりの玄関は創業当時のままである。
玄関を開けると、世界的版画家である棟方志功の作品が出迎えてくれた。奥津温泉をたいそう気に入った棟方志功は、たびたび奥津温泉を訪れ、多くの作品を制作した。館内には、奥津荘のために棟方志功が残していった版画や大和絵、焼き物などが飾られている。
奥津荘の名物は、「鍵湯」と呼ばれる浴室である。浴室の扉を開けると、7~8人くらいが浸かれそうな大きさの岩風呂がひとつ。浴室は半地下にあるので、窓からは景色を望むことはできず、浴室内は薄暗い。何も知らずにこの温泉を訪れた人は、「よくある浴室だ」と思うかもしれない。
だが、「鍵湯」の魅力は、湯船に浸かった瞬間にわかる。清水のように澄んだ透明湯は、そんじょそこらの温泉とは、ひと味もふた味も違う。湯の鮮度がズバ抜けているということは、温泉の違いに疎い人でもわかるはずだ。湯船に入ってまもなく、身体の細胞が喜ぶのを実感するだろう。
「鍵湯」には、一般の湯船に見られる湯口がない。にもかかわらず、湯船から川のごとく、大量の湯があふれ出していく。実は、湯船の底の岩間から気泡とともにボコボコと湧き出している。つまり、足元湧出泉である。
■手を加える必要のない絶妙な泉温
鍵湯の源泉は、42.6℃。熱すぎず、ぬるすぎず、まさに奇跡的な泉温である。だから、加水や加温をする必要もない。足元湧出泉の中でも、これほど絶妙な泉温で湧いている温泉は数少ない。無味無臭の湯は、まるで化粧水に浸かっているかのようで、肌にやさしく、スベスベになる。
なお、鍵湯は男女交替制で、時間によって同じく足元湧出泉の「立湯」と入れ替わる。立湯は、鍵湯よりも小ぢんまりとしているが、その名のとおり、立って入るほどに湯船が深いのが特徴。こちらも鍵湯に勝るとも劣らない名湯である。
夕食は、食事処でいただく。地元の食材にこだわった田舎風のホッとするような山里料理である。旅館の料理は、その土地ならではの食材を提供するのがやはり理想である。とくに、創業以来、変わらない味だという、源泉で蒸した「強蒸し」と「薯用蒸し」は、強く印象に残る。
「鍵湯」という名は、約400年前、津山藩主の森忠政が森家専用とするため、一般人の入浴を禁じ、番人を置き、鍵を下したことに由来するという。忠政公は、よほどこの湯にご執心だったようだ。その湯船こそが、今の奥津荘の湯船だといわれる。時の殿様も、足元湧出泉の魅力に気づき、鍵湯を独り占めしたくなったのだろう。鍵湯に浸かった人は、きっと殿様の気持ちが、よくわかるはずである。