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- 故事成語に学ぶ(16)過(あやま)っては則(すなわ)ち改むるに憚(はばか)ることなかれ
誤りは不名誉という認識
新聞記者時代の話で恐縮だが、紙面における「訂正」の扱いのことである。1990年代のある時期から、紙面で「訂正・お詫び」の掲載件数が異様に増えはじめた。数字、固有名詞のたぐいから、明らかな事実誤認に基づくものまで多様である。記事の信頼性を損ねる不名誉なことである。
それまでは不名誉であるから伏せる、というのが常識としてまかり通っていたのであるが、発想を変えた。誤りは誤りとして認めることで、記者は慎重になり、かえって訂正すべき誤りは激減した。
誤りを認めることと、伏せることと、結果的にどちらが紙面への信頼性を増すことになるかということだ。
業界を代表するY證券は同じころ、バブル経済の崩壊で抱え込んだ膨大な損失を会社ぐるみで隠し続け崩壊に追い込まれた。近年では自動車を含むメーカーによる検査データの不正隠しが相つぎは、会社、製品の信頼性を大きく毀損している。
「バレなければ隠す、それが会社の利益」という考えは明らかに間違っているが、誰も責任をかぶりたくないので、現場からトップまで隠したがり、より重大な結果を招くことになる。なぜ、わかっちゃいるけどやめられない、のか。
孔子の考え
孔子の言葉を集約した『論語』の冒頭、「学而篇」の中で、こういっている。
「過(あやま)っては即(すなわ)ち改むるに憚(はば)ることなかれ」(間違いに気づいたら、対面など考えずに、直ちに訂正すればいい)
人の上に立つものの心得を説いた一節だ。前段にこうある。
「誠意のない言動をしたり二枚舌を使ったり、くだらない人物を相手に一人自分だけが偉そうにしたりしてはいけない」
また、別の箇所(衛霊公篇)では同じことをこう表現している。「誤って改めざる、これを過ちという」
人として過ちは避けられない。しかし、意図しないで起きた過ちを隠し通すことは、意図的な〝罪〟であり、取り返しがつかないことを指摘している。
あるべきトップとしての対応
このことは中国・周代にまとめられた古典中の古典である『易経』の中にも、「過ちあれば、すなわち改む」として取り上げられているが、それでも改まらない、厄介なことだ。
トップが誤りを隠し通して知らぬ存ぜぬでは、孔子の言を待つまでもなくリーダー失格であるが、部下の誤りを知った時にどうするか。易経には、こんな言葉も載っている。
「過ちをゆるし、罪を問わない」
間違えた。でもトップが怖い、出世に響く。強権的支配のリーダーの下では、不正隠しは横行する。過ちを認め、次に生かす。そんなリーダーの下なら、間違いの影響は極小化され、誤りは次第に減っていくに違いない。どうだろうか。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『論語』金谷治訳注 岩波文庫
『論語新釈』宇野哲人著 講談社学術文庫
『易経(上)』高田真治・高田基巳訳 岩波文庫