歴史にイフ(もしも…だったならば)は禁物だという人もある。しかし歴史にイフがなければ歴史の本当の意味も解らない、という見方もある。
私は適切に使うならば、歴史のイフは大きな意味があると思う。例えば日露戦争の時、ロシア軍の総司令官のクロパトキン将軍が、もしも少しだけ猛将であったならば日本軍は惨敗したであろう。
これは日露戦争が終わって検討してみたら、あまりにも明々白々のことであったので、日本陸軍の指導者たちは「最後の最後まで猛烈な攻撃をすること」を最高の教訓とするようになった。これが大東亜戦争で日本軍が大きな損害を蒙るもととなった。歴史のイフは、反省とも痛恨とも洞察ともなる。
今の日本人はアメリカと戦争して勝つ確率はゼロだと考えているし、事実そうであろう。しかし昭和十六年から十七年にかけては(1941年―42年)、日本がアメリカに勝つか、ドローン・ゲームにする確率は50パーセント以上あったのである。たった一つのイフを考えるだけで。
そのイフとは何であるか、と言えば、昭和十六年十二月八日、ハワイを急襲した時の機動部隊の司令官が南雲忠一でなく、山口多聞であったら、ということである。
いわゆる真珠湾攻撃は、第一次攻撃、第二次攻撃ともに海戦史上空前の大成功であった。アメリカ太平洋艦隊の主力戦艦群を実質上全滅させていたからだ。
第三次攻撃の目標は燃料タンクと修理施設である。山口の率いる航空母艦「飛龍」の航空参謀は第三次攻撃隊の準備完了を報告し、攻撃隊は飛行機をエンジンをかけ爆音を轟かせながら待機した。
山口は旗艦「赤城」にそのことを信号旗で伝えたが、司令長官の南雲中将からは応答なく、全機動部隊は反転して帰国の途についた。日本側の損害は二十九機、戦死者は五十五人であり、軍艦の被害はゼロであった。見方によっては見事な引き上げ方であった。
第三次攻撃を行い、燃料タンクや修理施設を破壊するか否かは、その約二ヵ月前に連合艦隊の旗艦「長門」での図上会議でも問題になり、山口は第三次攻撃を主張した。南雲機動部隊司令官は黙ったままだったという。
今では南雲中将は、真珠湾攻撃作戦に乗り気でなかったことが知られている。はじめから腰が引けている感じの人を司令官にした人事に問題があったというべきであろう。それに航空専門の山口と、水雷出身の南雲はどこか合わないところがあったようだ。航空には瞬間的判断が必要だが、そういう人を海軍兵学校の卒業年次にこだわって司令官にしなかったのが海軍人事の失敗である。
しかし第三次攻撃はしなかったけれども、機動部隊を無傷で引き上げさせたのは作戦の妙と評価する見方もあった。機動部隊の草鹿龍之介参謀長――この人は剣道では免許皆伝の腕前だったという――は、「サッと斬りつけ、サッと引くのが剣の極意だ」と言って第三次攻撃をしないで引き上げたことを自慢あるいは弁解していた。
それが完全に間違っていたことは、アメリカのチェスター・W・ニミッツ提督が『太平洋海戦史』の中で次のようなことを書いていることから明らかになった。
「燃料タンクに貯蔵されていた四五〇万バレルが爆撃されていたら、アメリカの航空母艦も数ヶ月にわたって、真珠湾を基地とした作戦は不可能であったろう」
アメリカ海軍が太平洋に持っていた主な軍艦はサラトガ、レキシントン、エンタープライズ、ホーネットなどの航空母艦だけである。もし真珠湾に石油がなくなっていたら、これらの航空母艦も数ヶ月は動けなかったということになる。
そうすると昭和十七年四月十八日の航空母艦ホーネットから飛び立ったドーリットル中佐の率いる十六機の陸軍爆撃機B25による東京、川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸の空襲はなかったはずだ。
その時の被害は大したものでなかったが、日本国民に与えたショックや、日本海軍のプライドに与えた影響は大きかった。四月の上旬、日本の第一航空艦隊はインド洋からイギリス艦隊を一掃するという大手柄を立てていた。
イギリスの空母一隻、重巡洋艦二隻、そのほか二十隻近い敵艦船を沈め、わが方の艦船の損害ゼロという記録的な勝利を収めていたのである。その留守に日本の首府東京が空襲されるとは。
そのためにあわてて行われたのがミッドウェー攻撃であった。この戦いで日本は主力空母四隻と、飛行機三二二機とベテラン操縦士数百名を失った。この時も、山口は南雲司令官に「直チニ攻撃隊発進ノ要アリト認ム」の信号を出したが、南雲はその提言を容れず、艦上攻撃機の爆装を雷装に切り替えさせることを命じたのである。その間に敵の急行下爆撃機が襲ってきたのである。空母の甲板は火薬庫同然だった。
このことがなければ日本海軍は太平洋を完全に支配しえた。(アメリカの潜水艦の魚雷はその頃はたいてい爆発しない不良品ばかり。)するとアメリカの陸軍はカリフォルニアの西海岸に集中せざるをえなくなり、イギリスを応援するためにヨーロッパやアフリカに軍隊を送る余裕がなくなり、イギリスはドイツに敗れ…というシナリオが出てくるのである。このシナリオはアメリカのハーマン・ウォークの考えたイフでもある。
渡部昇一
〈第12人目 「山口多聞」参考図書〉
「父・山口多聞」
山口宗敏著
光人社刊
本体1700円