ヒットラーのナチスドイツ軍電撃侵攻で、英仏軍はドーヴァー海峡に面したフランス北部のダンケルクに追いつめられた。
この間、オランダ、ベルギーは押し寄せるドイツ軍にあっと言う間に降伏し、圧倒的な陸軍を擁するフランスも弱気になっていた。
チャーチルの度重なる警告にも関わらず、連合国側は“平和ぼけ”していた。
「そうであってほしい」という願望が、「そうである」との事実誤認に化ける。リーダーたちが避けるべき“希望的錯誤”だ。
この場合、「ヒットラーといえど自滅覚悟で挑戦してくるはずがない」という願望にヨーロッパ中が支配されている。
チャーチルだけは、迫る危機への冷静な判断力を保持していた。
ドイツ軍の侵攻17日後から英国連合軍のダンケルク撤退大作戦が始まった。呼びかけに応じて駆けつけた民間の船を含めて艦艇は860隻。
兵士たちを次々と船に収容してドイツ空軍の猛爆撃の中、往復する。十日間で英国軍と連合国の兵士33万8千人が対岸英本土の土を踏んだ。
撤退作戦が終了した6月4日、チャーチルは英国議会下院で不敗の決意を訴える。
「われわれはこの救出を、勝利と受け取らないように注意する必要がある。撤退によって勝利は得られない」「ヒットラーはイギリス諸島に侵入する計画を持っているようだ」。そう国民に警告した後、声のトーンを上げた。
「われわれはいかなる犠牲があっても本土を守り抜く。われわれは海岸で戦い、上陸地点で戦い、野原や市街で戦い、山中で戦う。われわれは決して降伏しない」
もはやひるむ英国民はいなかった。これから5年、国民はチャーチルのラジオ演説に希望を求めてかじりついた。連日の空襲の中で。
6月21日、フランスのペタン政権は降伏。もはやドイツと戦うのは「ブリテンの戦い(本土防衛戦)」を掲げた英国のみとなった。
彼が国民を一致団結させたのは、戦いの方向を示し決意をふるい立たせる巧みな演説だけではない。
ロンドン大空襲のさ中でも、国民の前に姿を現しては声をかけ励ました。
チャーチルを「好戦狂」「戦争屋」と罵倒してあれほどに嫌っていた労働者たちも、「ウィニー爺さん」と呼んで絶大な信頼を寄せた。
演説の名手とされたヒットラーは戦争が始まるや国民の前に姿を見せず、やがてナチスと対決するソ連のスターリンもクレムリンの奥に籠もり指揮を執ったのと鮮やかな対照を見せた。 (この項、次週に続く)