英雄たちが覇を競った中国の三国志の世界。曹操の魏が勝ち残ったのは、武人、文人を含めた多彩な人材の勝利だとされる。
天下取りへの出陣に一歩遅れた劉備の蜀も関羽、張飛の両将軍に加え、諸葛亮という稀代の軍師を擁してはいた。
しかし関羽、張飛が早々と戦さに倒れ、諸葛亮が世を去ると跡を襲う人材はなく、見る間に衰えた。
現代でいうと、豊富な人材の確保、補充が可能な大手企業に伍して中小企業が闘うには、限られた人材をどう育てるかが問われることになる。
人使いの巧者・武田信玄の終生のライバルだった上杉謙信にこんな逸話がある。
ある時、使番(つかいばん)の一人である長尾甚左衛門の後任を選ぶことになり、謙信は神保主殿(じんぼう・とのも)という17歳の若者を選んだ。
使番は、戦場で本陣・先陣間の伝令、敵への使者を努める重責で、百戦錬磨のベテランを配置するのが定石だ。そこに経験のない若者を登用した ことをいぶかしむ同役たちが注進に及んだ。
「大事な役でありますから、十分に吟味の上で人材を選ばれるべきです。西も東もわからぬ者を選ばれるとは。これまた、どうしたお考えか?」
気色ばむ同役たちに謙信は、「お前たちがそこまで人事に深い関心を持っていると聞いて、とても喜ばしい。これもわが家の武運が盛んである証拠」と、注進を誉めたあと、こう説いた。
「お前たちの言う通り、確かに使番はわしの目となり片腕とならねばならん。武役の経験者を充てるべきだろう。しかし、お前たちの同役に、五度、七度と武役の経験があるとはいえ、お前たちに及ばない若輩を充てれば、どうなる。かえって経験不足だ、不釣り合いだと腹を立てるだろう」
それを見越して、まったく経験のない若者を抜擢したのだと謙信は言う。その狙いは…。
「わしの眼力で、こいつならやれると踏んで選んだのだ。あとはわしが信頼しているお前たちがこの男を使番としてしっかり養成すれば、後々までも絶対に失敗するまい」
この神保主殿は、謙信の見立て通り、翌年、加賀尾山の城攻めで大活躍する。
部下の素質を見抜き、あとの教育は責任を持たせて託す。それがリーダーの務めだという。教育の前に多少の経験など邪魔になるということだ。
経験。現代なら学歴も含まれるだろう。大企業の多くは、学歴重視の人材採用で有利なればこそ、人材養成で苦戦している。
肝に銘じるべき謙信の逸話だ。