家康に叩きつけた「直江状」
越後の虎、謙信亡き後、家督を継いだ上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)を執政として支えた直江兼続(なおえ・かねつぐ)は、第二人者としての見事な生き様を見せた。私心なく主君家を護り、家臣、民を慈しむ姿勢は、まさに彼が兜につけた「愛」の前立てが象徴している。
その一生を貫くのは、謙信から薫陶を受けた「義」の精神であり、時には権力者に対してもその非道を厳しく指摘することも辞さなかった。
天下分け目の関ヶ原合戦、そのきっかけとなったのは、兼続が徳川家康に送った一通の書状だった。世にいう「直江状」だ。豊臣秀吉亡き後、天下簒奪(さんだつ)を狙う家康は、会津に移封された上杉家が謀反を企んでいるとの密告を受け、「上洛して事情を説明せよ」と命じた。これに対して兼続が書いた挑戦的な返書だ。大約は次のようである。
「一昨年、越後から会津へ国替えとなり、国内問題で忙しい中でどうして上洛できましょう。また雪国の会津から冬も開けやらぬ今、動けないことは先刻ご承知のはず。讒言(ざんげん)を頭から信じて出てこいとは、乳飲み子に対する扱いです。噂を真に受けて当方に不義の汚名を着せようというのであれば是非には及ばず。(上洛しての)詫びも忠義の約束も必要ないでしょう。失礼ではありますが、愚見を申し上げたまで」
丁重に言葉を選びながら、辛辣かつ無礼に家康を挑発している。また、文中には、「景勝が間違っているのか、内府様(家康)に表裏(陰謀)があるのか、世の評判が決めるでしょう」とまで書いた。
当然、この種の手紙の内容は、上杉家内のみならず、他の大名家にも流通する。情報戦の一環である。
上杉も徳川も秀吉恩顧の五大老として同格である。秀吉死後、政権簒奪へまっしぐらの徳川の横暴に不満が政治中枢で沸き起こっていた。そうした中で、「よくぞ言ってくれた」と快哉を叫ぶ声が聞こえてきそうだ。
関ヶ原の戦後処理
手紙を受け取った家康は激怒した。京・大坂を留守にして、諸将を引き連れ会津征伐に東へ下る。下野国の小山まで遠征したところで、石田三成が大坂で挙兵する。家康は輩下に西上を命じて、自らも江戸に引き返す。ここまでは旧知の間柄だった三成と兼続の計画通りだった。東西から挟み撃ちで家康を葬り去る密謀があったようだ。しかし、戦闘準備を整えていた上杉軍は退却する家康を追わなかった。
追えば、以後の歴史は変わっていただろう。この辺りが歴史の謎である。結果的には関ヶ原で家康、三成両軍が激突し、家康が勝つ。ご存知の歴史である。
さて、ここからである。このままでは、上杉家はつぶされる。会津に立て籠る手もある。しかし兼続は幼なじみの主君を説得して、伏見城に出向き、親交のあった家康側近の本多正信を通じて家康に詫びを入れる。兼続は、幕を開けることになる徳川の世での主君・上杉家の生き残りを模索する。
交渉録は残っていないが、兼続は必死で家康への取りなしを画策しただろう。家康にしてみれば、政権基盤も脆弱なまま、勇猛で知られる上杉軍とことを構えたくない。奥州には、うるさい伊達政宗も控えている。上杉が軍門に降るなら、伊達を牽制する北の抑えとして兼続が差配する限り上杉は使える。室町時代の関東管領家の流れを汲む上杉の名は重い。丁々発止(ちょうちょうはっし)の外交交渉を兼続は必死で担う。
上杉家は、取り潰しをまぬがれ、会津から米沢に移封されることで生き残った。
米沢移封後の藩立て直し
しかし上杉家が秀吉から封じられた会津は120万石あったが、転封された米沢は30万石。石高は四分の一となる。リストラが必要だったが、会津時代の家臣団は面倒見の良い景勝と兼続を慕ってほとんどが米沢についてきた。上杉家は希望する家臣たちを無下にリストラしなかった。その代わり俸給をそれぞれ三分の一にカットした。
兼続も5万石あった所領の大半を家臣たちに分け与える。執政自らの率先垂範に、誰からも文句は出ず、苦難に耐えた。
兼続は、戦いで発揮したリーダーシップを藩経営に生かして殖産興業に力を入れる。新田開発、水利事業を指揮し石高の向上に乗り出す。さらに鉱山を開発し、漆や紅花、製紙原料の楮(こうぞ)などの商品作物の栽培を奨励し、農民と一体となって藩財政の収入増にも積極的に取り組んだ。
米沢藩の財政再建というと、九代目、上杉鷹山(うえすぎ・ようざん)があまりに有名だが、その範はすべて兼続の起業にあったのだ。
越後時代に、上杉謙信の急死で生じた後継者をめぐる御家騒動で5歳年上で幼なじみの景勝を担いで戦い、激動の時代に荒波を乗り越えて景勝を盛り立て続け、会津を経て米沢にたどり着いた兼続。見事なリーダーシップに、「米沢藩は、直江の藩だ」との噂も立つほどだったが、彼には、権力の座を襲うような私心は微塵(みじん)もなかった。
兼続は、幕府との関係強化のために、家康の腹心である本多正信の次男を婿養子に迎えているが、藩の運営が軌道に乗ると本多家に帰している。嫡男に先立たれたが、あらためて養子を迎える事もなく、兼続が亡くなった元和5年(1619年)、直江家は途絶えた。
主家を盛り立てることだけを生き甲斐とした、余りに潔いナンバー2としての生涯だった。愛されるわけである。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『実伝 直江兼続』火坂雅志編 角川文庫
『名将言行録』岡谷繁実著 北小路健、中澤惠子訳 講談社学術文庫