昨年夏の終わりからはじまった米不足騒動と米価高騰は、政府の備蓄米大量放出をもってしても未だ収まる気配はない。国民の主食である米の値が上がれば諸物価にはねかえる。庶民の生活不安が高まれば政権の命取りともなりかねない。全土に貨幣経済が広まった江戸時代以来、米価の安定は為政者にとって最重要政策課題だった。各時代の政権はこの問題にどう取り組んできたのか。この機会に米価安定をめぐる政治の取り組みを振り返ってみよう。
基軸通貨だった江戸時代の米
江戸時代に入って、貨幣経済が発達したが、農民の税(年貢)は米で徴収され、支配階層である武士の俸禄は、幕府においても、諸藩においても、扶持米(ふちまい)の石高で支払われた。
三大貨幣である金貨、銀貨、銅銭の価値は、幕府がその換率を固定しようと努力したが、江戸は金本位制で、京、大坂は銀本位制で経済運営されたため、東西両地域の物資流通の差から各貨幣間のレートはその時々の状況に応じて両替商が決める実質的には変動相場制で運営されていた。こうしたことから、主食として安定した価値を持つ米が基軸通貨としての役割を担った。
米の収量が安定している時期はいいが、江戸時代にはたびたび天災による凶作に見舞われたことから、需要と供給のバランスによって、米の価格は上下した。基軸通貨としての米価の揺れは、武士の生活に影響したばかりでなく、諸物価にも影響して庶民の生活をも直撃する。さらには、石高で運営される幕府、各藩の財政にも直結する重大な問題として浮上する。
大坂米市場の発展
各藩は領内の農民から(幕府は直轄地から)徴税した年貢米のうち消費分を除いた米を商人を通じて貨幣に替え藩財政資金に充てる。江戸時代初期には、各地に米市場と米問屋が出現したが、やがて流通の効率性を求めて、各藩が大坂の中之島に蔵屋敷を建てて米を売買するようになる。
当初は、各藩の役人が取引を担当したが、やがて蔵屋敷に出入りする大阪商人が専門に売買を担当するようになる。当然の成り行きだ。藩財政が窮乏しているのを見つけると、商人は藩に莫大な資金を用立てて利子を稼ぐ。各藩の蔵屋敷の財務担当も商人とのコネを作り資金を調達する職務に変わっていく。蔵米の売却を委託された大坂商人たちは、莫大な利益を得て、大坂は「天下の台所」として発展してゆく。大坂の堂島界隈には、巨大な米市場が出現し、全国から集まってきた米の価格(相場)は、需要と供給のバランスの中で決められていく。はずであった。
先物取引で投機相場に
落札業者は、代金を支払い蔵屋敷が振り出す「切手(きって)と呼ばれる手形をもらい、後に現物を受け取る証書とする。堂島米市場での取引が加熱してくると、現物米が蔵屋敷に届く前に、作況を予測した先物売買が盛んになる。「空米(くうまい)切手取引」という、いわゆる先物取引で、そのことに商行為として問題はない。そのうちに切手自体が、現物に代わって市場で盛んに取引されるようになる。さらに、入荷が見込めないのに切手だけが売買され、米市場は投機的様相を強めてゆく。17世紀末から18世紀初頭、元禄バブルの時代だ。
幕府は、現物から離れた切手取引の過熱が米価高騰の原因だとして、繰り返し制限し取り締まった。
ところが、米価は奇妙な動きを見せ始める。1716年(享保元年)に第8代将軍に就いた徳川吉宗が陰りを見せ始めていた幕府の権威と財政を立て直すべく「享保(きょうほう)の改革」に取り組んでいた最中のこと。米価が急速に下落を始めた。標準的な米相場は、10年間で4割も下落してしまったのだ。
わずか数ヶ月で米の値段が2倍に爆騰し、家計やりくりに四苦八苦している今のわれわれにとっては夢のような話だが、吉宗は危機感を深めた。米価の下落は、農民の農村離れを加速し、米扶持で暮らす旗本の生活を脅かしていた。吉宗は、米価政策の根本的見直しを迫られ、大坂の米市場が持つ潜在力に目をつける。(この項、次回に続く)
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考資料
『日本の歴史16 元禄時代』 児玉幸多著 中公文庫
『日本の歴史17 町人の実力』 奈良本辰也著 中公文庫






















