【意味】
秦は、贅沢淫乱を欲しい侭にし、刑罰を重くしたため2代16年で消滅した。
【解説】
秦の国(BC22-BC206)は、始皇帝(BC259-BC210)が戦国の乱世を平定し、初の中国統一を果たした王朝をいいます。この国は、初代の統一王朝の華やかさの反面、僅か2代16年という短命です。
掲句は、太宗が自らの唐王朝の反面教師としたいという想いで、秦王朝の崩壊原因を臣下に問いかけた言葉です。
類まれな武将が戦乱の天下を力で統一しますが、統一後にその武力でもって成功するかといいますと、意外に旨くいっていません。その理由は君子豹変ができていないからです。
「君子は豹変する」という俗諺は、現代では権力や腕力を有する者が急に凶暴性を発揮するという悪い意味で使われます。しかし元来の意味は、豹の毛は抜け変わりにより斑紋が鮮やかになることから、君子が一旦決断すれば、態度や考え方が良い方向に一変するという意味です。
乱世の中で殺戮を繰り返し、縄張り争いを勝ち抜いた一番血の気の多い武将が、一転して統一後は暴力反対を唱え平和な安定した治世を行うには、君子豹変が必要になります。
中華思想では、君子にもレベルがあります。特に最上位の君主を「天子」として崇めます。度量だけでなく最上位の品格も備わっていることが条件となります。これ以外のレベルとしては、明君・並君・暴君・暗君などがありますが、このレベルでは天子の資格はありません。
天子を定義をすれば、「天帝(天地自然の神様)の子供(天子)として、その命を受け(天命拝受)、人民を治める君主の役割(使命実践)を担った人物」(巌海)となります。
秦の始皇帝は名前からして初代であり、太宗も実質的には創業時から活躍していますから、二代目とはいっても創業者の色合いが強い人物です。結論からいえば、前者の始皇帝は豹変ができず、後者の太宗はほぼ豹変ができたといえます。
始皇帝は度量衝・文字・貨幣の統一など・・・一定の施策を成し遂げていますが、焚書・坑儒の例にあるように暴君のイメージが残り、天子の品格に欠けるという評価が下されています。
一方の太宗ですが、賢夫人の文徳皇后、名臣群の房玄齢・杜如晦・魏徴などの支えもありますが、太宗自身が"天子としての天命使命"を自覚した優れた人物でありました。50歳で亡くなっていますが、歴史上の願望を言わせてもらえば、もう10年生きていて欲しかった人物の一人であります。
日本の歴史の中でこの両者と似た人物を探すとなれば、秦の始皇帝は豊臣秀吉であり、太宗は徳川家康となります。