■温泉の句をあまり詠まなかった芭蕉
「奥の細道」の作者である俳人・松尾芭蕉は、江戸の深川から東北、北陸をめぐり、岐阜の大垣まで徒歩で旅をした。全行程2400キロメートル、150日間にも及ぶ壮大な旅だった。当時としては、命をかけた「冒険」だったと思う。そんな旅を敢行した芭蕉のチャレンジ精神に感服せずにはいられない。
だが、ひとつだけ理解できないことがある。芭蕉が東北や北陸など温泉が豊かな土地を通過しているにもかかわらず、温泉にまつわる句をほとんど詠んでいないことだ。現在の那須湯本温泉(栃木県)や飯坂温泉(福島県)、鳴子温泉(宮城県)などを訪れたのはたしかだが、温泉にはつからなかったようだ。一説では、芭蕉は温泉が好きではなかったといわれている。
そんな芭蕉が、唯一気に入った温泉がある。それが、石川県加賀市の名湯・山中温泉。1300年前の開湯といわれる山中温泉は、山に囲まれた情緒あふれる温泉地。大聖寺川沿いに20ほどの温泉旅館が建ち並ぶほか、メインストリートの「ゆげ街道」には、土産物屋や飲食店、ギャラリーなどが軒を連ねており、たいへんにぎやかだ。
オシャレなカフェや甘味処などもあり、若い女性の姿も多い。旅館ばかりが大きくなって、昔ながらの街がすたれてしまった温泉地は少なくない。山中温泉は全国的に見ても、数少ない活気のある温泉地のひとつである。
■ケタ違いのスケールを誇る浴舎
芭蕉は、そんな山中温泉をたいそう気に入ったようだ。9日間も滞在し、温泉を楽しんでいる。そして、「山中や 菊はたおらぬ 湯の匂(におい)」という句を詠んだ。「山中の湯に浴し、湯の匂いをかげば、寿命がのびるような気持ちになる」という意味が込められている。芭蕉が、どれだけ山中の湯を気に入ったかがわかる。
芭蕉が逗留した「泉屋」はすでに存在しないが、その跡地のすぐそばには山中温泉のシンボル的存在である共同浴場が建つ。
総湯「菊の湯」は、共同浴場といっても、そのスケールはケタ違いに大きい。共同浴場は、たいてい小さな木造の湯小屋だったりするが、「菊の湯」は学校の体育館くらいのサイズ。しかも、男女別に建物が分かれていて、それぞれがデカイ! 規模だけでいえば、おそらく日本一の共同浴場だと思う。
男湯は、重厚な天平風の建物。番台でチケットを渡すと、入り口が2つ。反射的に男湯の入口を探してしまったが、もちろん両方とも男湯で、中で脱衣所がつながっている。ちなみに、開湯以来、男湯の浴場の場所はずっと変わっていないのだという。
■外まで響く賑やかな声
浴室には、プールのようなサイズの湯船。40~50人は入れそう。湯船が深いのが特徴で、立ち上がってもへその下まで湯がくる。鎮静作用があるとされる透明湯が、やさしく体を包み込む。体の細胞が、みるみる生気を取り戻していく感覚だ。循環ろ過しているが、それでも湯の投入量が多いので、気持ちよく入浴できる。
昭和の初めまでは旅館に内湯がなく、旅人も住民も一緒にこの湯を利用していたとか。地元の人に愛されているのは今も同じ。平日の昼間だというのに入浴客が次々とやってくる。常時30~40人以上は浴室にいたのではないだろうか。しかも、観光客ではなく、ほとんどがお風呂セットを持参している常連さん。
規模は大きくても、地元の人の生活に根づいているという点では、まさに共同浴場そのものである。みなさん顔見知りなのか、至るところで世間話に花が咲いていた。その賑わいは、建物の外まで入浴客の声がもれてくるほどだ。
入浴後は、温泉街に沿って流れる渓谷「鶴仙渓」まで足を延ばしたい。1.3㎞の遊歩道には、芭蕉が「行脚の楽しみここにあり」と評した渓谷美が広がる。芭蕉をとりこにした景色を眺めながら、一句詠んでみたくなった。