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挑戦の決断(43) 新しい国の形を求めて(徳川慶喜 下)

指導者たる者かくあるべし

大政奉還

 徳川第十五代の将軍に就いた徳川慶喜は、慶応3年(1867年)10月14日、朝廷に対して、天皇から預かった征夷大将軍の地位を返上し政権を朝廷に戻す「大政奉還」の上表文を朝廷に提出した。
 この一事をもって「慶喜は困難な時局にあって政権を投げだした」と慶喜無責任論が今でもまかり通ることになる。しかし慶喜の大決断は、救国の一心からでたもので、しかも周到に将軍辞職の後の国家体制まで準備していた。
 彼が目指した新しい国の形の具体的内容はのちに述べることにするが、大政奉還の上表文にはこうある。口語訳で紹介する。
 「外国との交際が盛んになっている今日では、従来の旧習を改め、広く会議を尽くし、聖断を仰いで同心協力をすれば、皇国の時運を保護できるだけでなく、海外の万国と肩を並べることが可能である」。最後には、「天皇の臣下である慶喜は、国家に尽くすところ、これに過ぎるものはない」と付け加えている。
 面白い類似に気づくのではないか。半年後の慶応4年(1868年)3月に交付された明治天皇による「五箇条の御誓文」の内容との比較である。

 1、広く会議を起こし、万機公論に決すべし。
 2、上下心を一つにして盛んに経綸を行うべし。
 3、官武一途、庶民に至るまでその志を遂げ、人心をして倦(う)まざらしめん事を要す。
 4、旧来の陋習(ろうしゅう)を破り、天地の公道に基づくべし。
 5、智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。

 いかがだろうか。明治天皇の叡慮が産んだとして教えられてきた五箇条の御誓文は、慶喜の上表文の焼き直し、なぞったものに過ぎないのだ。

慶喜が描いた理想の政体

 実現性のない攘夷にこだわる孝明天皇の死去で、幼い明治天皇が即位し「御し易し」と見ていた西郷隆盛、大久保利通ら薩摩藩士と、彼らに踊らされた公家の一部からなる討幕革命派は、大政奉還にあわてる。振り上げた拳の下ろしどころがなくなった。
 慶喜が時勢を読み、用意周到に将軍位を捨てて「大君」として新たな国づくりの主導権を目指す慶喜が先手を打ったのだ。
 行き詰った政局の中で幕府内にも将軍職返上の声がなかったわけではない。「倒幕の不名誉に遭う前に、駿河一国の藩主となり徳川家を存続させる」という消極論だ。しかし慶喜の決断は、そんな無責任なものではなかった。維新後、慶喜は大政奉還の決断について振り返っている。
 「東照公(家康)は日本国のために幕府を開いたが、自分は日本国のために幕府を葬る任にあたるべきだと覚悟した」
 では、制度疲労した幕藩体制に変わる理想の政体として慶喜が思い描いたのは、どんな形だったのか。
 実は慶喜は、将軍職を引き受けてから、幕府内の西洋研究シンクタンクだった幕府開成所教授の西周(にし・あまね)に命じて幕府に変わる新しい国の形の研究をさせていた。その内容は、大政奉還の前日夜、西を京都二条城に呼び出して講義させている。
 その骨子は、驚くほど開明的なものだ。

 1、大君(慶喜)が最高指導者となり、大坂に設置する行政府を主宰する。
 2、立法府議政院を設置し、上下二院制とする。上院は一万石以上の大名で構成する。下院は各藩主が一名を選任する。
 3、大君は国家指導者で行政権をもち、上院議長を兼任し、下院の解散権をもつ。
 4、天皇は、元号、度量衡の制定、叙爵権をもつ。

 英国の議会主義を手本とし、皇室を英国王室に擬して、「国王は君臨すれども統治せず」という立憲君主制の中で、現実的な行政権を経験のある幕府が担おうとした。実際に維新の段階で、朝廷、公家に朝廷外の行政実務の経験はなかった。
 慶喜の将軍就任に際して、越前藩主の松平春嶽が知恵を授けた「諸侯会議」をさらに発展させたものだ。別の項目では三権分立と、諸藩に配慮した地方自治をうたい、米国の連邦制による権力の独裁化防止にも配慮していた。日本初の憲法である。

武力倒幕が民主化を遅らせた

 この講義録は、大正5年(1916年)になるまで、公にならなかった。「愚鈍な幕府と無能な将軍・慶喜」を武力倒幕の根拠とする明治新政府としては、存在してはならない合理的な新政府の青写真だったのだ。
 突如の大政奉還の決断に、行き場を失った西郷、大久保らは、武力倒幕に突き進む。大政奉還後、慶喜は大坂城に引き揚げて朝廷の動きを探った。窮した倒幕派は、王政復古の大号令を発して新政体からの慶喜外しに取り掛かる。薩摩軍に加えて長州の兵も京都に呼び寄せる。戦争の決断である。血気にはやる大坂の幕府軍も抗議のために京都へ向かう。
 慶喜は言った。「勝手にせい」。彼は武力に寄らない話し合いでの政体変革を目指していた。慶喜が同行しない幕府軍は、あくまで抗議の進軍であった。最新装備のフランス式軍備の小銃には弾も込められていなかったし、曳行する大砲もカバーをかけたままだった。
 このままでは朝敵になってしまう薩長は、武力で進軍を阻止するつもりで構えている。勝敗は初めから見えていた。
 そして武力によって幕府は滅び、天皇の権威を巻き込んだ薩長の下級藩士たちは、恐々と政権を奪取した。
 その新政府は、無理矢理の中央集権化で、職を失った士族の反乱に悩まされ、憲法制定、国会開設も20年以上遅れ、自由民権運動が各地で盛り上がる。
 理想のビジョンも不明確なままの武力倒幕は、この国の民主化を遅らせたとも言える。「勝者の書く歴史」から抜け落ちた明治維新史である。

 (書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com

※参考文献
『徳川慶喜 最後の将軍と明治維新』松尾正人著 山川出版社
『明治維新の正体』鈴木荘一著 毎日ワンズ
『日本の歴史19 開国と攘夷』小西四郎著 中公文庫

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