天罰発言事件
「武」という漢字は、「戈(ほこ)」を「止(とど)める」と書く。軍隊とは元来、可能な限り武力に訴えず平和をもたらすべき抑止力である。海軍軍人出身の鈴木貫太郎は、だれよりもその原則を心に秘めていた。
終戦を達成するためだけに首相に就任した鈴木は、1945年(昭和20年)6月、周囲の反対を押し切って帝国議会(国会)を召集し、議員たちを前に演説した。趣旨は「徹底抗戦」を主張するものであったが、これは建前で、演説には和平希求の思いが込められていた。「私はかつてこう米国に警告したことがある」とした上で、次のように続けた。
「太平洋は名の如く平和の洋にして日米交易のために天の与えたる恩恵である。もしこれを軍隊搬送のために用うるがごときことあらば、必ずや(日米)両国ともに天罰を受くべしと」
この発言を議員たちは、「国民は詔勅にある天佑を信じて戦いに赴いているのに天罰とは何事か」と猛反発し、議会は紛糾した。もはや戦いに勝ち目がないことは、国民だれの目にも明らかであるにもかかわらず、軍部のみならず、政治家さえも建前での「徹底抗戦」を言わざるを得ない。そんな世の空気を終戦に向けて導こうとする鈴木の議会開催の賭けは裏目に出た。それほどの狂気の時代だった。
練習艦隊米国寄港時のスピーチ
「日米あい戦うべきではない」というのは、開戦前からの鈴木の信念だった。時間を遡ろう。1917年(大正6年)練習艦隊司令官に転じた鈴木は、翌年3月から7月にかけて艦隊を率いて北米、南洋への遠洋航海に出る。
当時、第一次大戦後の欧米では、軍備増強を続ける日本に対して、「ドイツの次は日本が敵だ」と、日本脅威論が高まっていた。とくに日米の間には、太平洋の覇権をめぐって、互いに日米戦不可避論が高まりつつあった。そんな空気の中、サンフランシスコ市の艦隊歓迎会の席上で鈴木が言ったのが、先の帝国議会演説で引用した、「太平洋は和平の海。そこを戦いの海にすれば、双方が天罰を受ける」というスピーチだった。スピーチは、「日本人は好戦的だという誤解を説いてほしい。歴史を見ても、われわれは挑まれれば勇敢に戦うが自ら戦いを仕掛けることのない平和の民族である」と締めくくられた。会場は拍手の渦に包まれる。
二日後の現地紙には、地元の検事総長による、1ページぶち抜きの論文が掲載され、「米国民も、司令官とまったく同じ考えである」と賛意で埋め尽くされる。鈴木のスピーチは、外交官以上の効果をもたらす。
アイゼンハワー死去への対応
外交は相手国の世論をいかに味方につけるかが成否のかぎである。終戦作業に臨むにあたってもそのことが鈴木の脳裏から離れない。
鈴木の首相就任後、程なくして米国の戦争指揮をとっていた大統領のフランクリン・ルーズベルトが死去した。
訃報を受け取った鈴木は、短波放送を通じ、世界に向けて首相談話を発表した。
「今日、アメリカがわが国に対し優勢な戦いを展開しているのは、亡き大統領の優れた指導があったからです。私の深い哀悼の意をアメリカ国民の悲しみに送るものであります。しかし、ルーズベルト氏の死によって、アメリカの日本に対する戦争継続の努力が変わるものとは考えておりません。我々もまた、あなた方アメリカ国民の覇権主義に対し今まで以上に強く戦います」
敵国トップの死に対して、感情を抑えた表現で、最大の敬意を示す鈴木に対して、米国は、「終戦の意思あり」と判断した。
いかに屈辱的な条件を外して終戦に持ち込むか、に意を尽くす鈴木。しかし、メンツにこだわる軍部、とりわけ陸軍の抵抗に手を焼く中で、沖縄は地上戦に巻き込まれ、広島、長崎に原爆が落とされ、ついに日本は無条件降伏に追い込まれる。
「鈴木貫太郎の弱腰さえなければ、屈辱的な戦後占領、憲法の押し付けも避けられた」と、今も右派を中心にした批判論もある。しかし、鈴木の英断がなければ、日本は軍部が主張する「一億総玉砕」「本土決戦」に巻き込まれていた。
そして戦後の日本は、ドイツ、朝鮮半島と同様に東西両陣営に分割され、現在の繁栄は決してなかっただろうことだけは確かなのだ。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『鈴木貫太郎自伝』鈴木一編 時事通信社
『近代日本のリーダーシップ』戸部良一編 千倉書房