社長の教養の一つに「美食」や「食い道楽」を挙げる方も多いのではないだろうか。仕事の関係で接待が必要な場合もあり、相手により多くのジャンルの飲食店を知っていることは必要だ。
その一方で、名だたる名店での接待にいささか食傷気味、との本音もあるかもしれない。グルメ本で星をいくつ取ったなどという話題も時には一興だが、それに終始するものでもないだろう。
我々日本人の食生活は戦後、急速な発達を見せた。日常生活に必要な栄養を摂り、満腹感を得るだけでは飽き足らず、「美味」を求めるようになった。
もちろん、以前から「美食」の感覚はあったが、それは限られた「特権階級」のものでしかなかった。明治期に「洋食」が日本に流入し、大正期にはすでに「コロッケ」が一般庶民の食卓に乗るようになり、当時流行った浅草オペラでは『コロッケの唄』が大流行もしている。
20世紀以降は美味を求める頂点とも言えるような時期で、テレビではグルメ番組が多々続いている一方、廃棄食品の多さが問題にもなっている。美食を否定するつもりはないが、何事も「ほどほど」が一番だろう。
ちなみに、我々日本人が「飢餓」から解放されたのは明治以降のことで、それ以降も第二次世界大戦前後の食糧難は生々しい記憶を伴っておられる方もいるだろう。戦後の高度成長期を過ぎた辺りから「飽食の時代」との言葉が聞かれるようになった。我々の食生活は、ここ100年で急激な変化を遂げたと言える。
江戸時代以来、名店と名を馳せ将軍も立ち寄った料亭『八百善』。現在も店舗を持たずに卸販売などの営業を続け、幾つもの「伝説」を持つ店だ。その中に「一両二分の茶漬け」という話がある。現在の価格に直すと約60,000円ほどになろうか。
江戸期も終わりに近付くと、財を成した商人たちが武士に金を貸し付け、「通人」と称して一般とは違う遊びに興じた。美食にも飽きた通人が八百善を訪れ、「極上の茶漬け」を注文したが半日経っても出て来ない。やっと届いたのは確かに極上の茶漬けだったが、値が一両二分と聞き、高すぎると言う客に主人が答えた。「香の物は春には珍しい瓜と茄子を切り混ぜにし、茶は玉露、米は越後の一粒選り、玉露に合わせる水は早飛脚を仕立てて玉川上水の取水口まで水を汲みに行かせました」。さすがの通人も、ぐうの音も出なかったとか。
これを悪い冗談と取るか、通が粋を越して野暮に転じたと見るか、一流店の見識と見るかは角度によりさまざまだ。
しかし、インターネットに氾濫する、手掛かりには良いが浮薄なグルメ情報を盲信し、慌てて予約を取り、あるいは行列に並び、店に入った時点で、食事に大事な味覚、嗅覚、触覚は三割方減殺されてしまっている。
「この店に入れた」という満足感ですでに幸福になるからだ。有名無名を問わず、自分の舌で発見し、口に合うと思える店を料理や使う状況により幾つも持っているのが本当の食通だろう。
食べ物が溢れ、美食に事欠かず、首から下への栄養は満点以上でも、首から上の「教養」が不足しがちなのが現代ではあるまいか。
自ら苦労して求めずとも、必要な情報は巷に溢れ、その取捨選択に困るほどだ。その中で確度の高い情報を見極める眼を持つことも必要だが、ある程度の年齢に達した時、仕事に役立つ役立たないとは違う観点で、何かの「テーマ」を見つけ、生涯の友として気軽に歩むぐらいの気持ちで学問に挑戦するのも悪くはない。
「学問」と言っても、大層に構える必要はない。歴史小説に新たな感覚で取り組むもよし、気分転換の旅行に「テーマ」を設け、五感を駆使するのも立派な学問であり、教養につながる。
ここで大事なのは「先送り」にしないことだ。「いつかそのうち」「時間ができたら…」という自分への言い訳はしない方がよい。「今よりも若い時間」はないからだ。
私の経験で申し上げるのだから、実例に基づくとお許しいただきたいが、「後でまとめて読もう」と思っていた好きな作家の全集を手にしても、全く進まない。老眼で視力は衰え、集中力や思考力の低下で内容の咀嚼や消化能力も衰えている。こんなはずでは…との後悔しきりだが、時間が巻き戻せるわけではない。
ここは潔く、今できることをすれば良い、と考えることにした。壮大な目標を立てて、すぐに挫折するよりも、無理なく続けられる「新しいテーマ」を見付けることができれば、これも立派な学問であり、教養でもある。
「実学」は、生きる上での経験が学びになるとの意味を持つ言葉だ。同様に、今までとは少し違う、あるいは僅かに何かを足せばスタートの準備完了だ。ただ、ここで危険なのは「先延ばし」だ。この仕事の区切りが付いてから、もう少し時間ができてからなど、やらない言い訳は誰でも即座に思い付く。
それよりも、挫折を恐れず「明日から始める」ことを最優先にすべきだろう。ひそやかに感じながらも人には知られたくない「衰え」を隠すためには、新しい分野での「教養」を増やすことは、最適な方法にもなるのではないか、と自分を叱咤激励する日々だ。
年を重ねても新しいテーマに挑戦する姿、これはカッコいいリーダーの姿として部下に映ること間違いなしである。