今どきでは、会社の社長室や応接室、会議室などに、有名無名を問わず絵画が掛けられ、インテリアとして焼物やオブジェが置かれているのは当たり前の光景だ。これは私見だが、こうした風潮が一気に広まり一般化したのは「バブル期」を境にしてのことではないか、と思う。もちろん、それ以前にも書画・骨董を趣味とする経営者たちはたくさんいたが、場合によっては「いやぁ、風流ですなぁ。私はゴルフの方が…」という方も多かったのではないか。ゴルフは、スポーツだけではなく、時に「商談」の場として重要な機会を持つもので、それもまた重要な交際だ。しかし、社長室にも絵の一枚ぐらいは、という感覚が生まれたのは好ましいことだ。
お客様をお通しした折の、何気ない会話のきっかけになる一方、美術に詳しい方であれば、一枚の絵を話題にして、相手のこの方面に関する興味や一般的な素養を知ることもできる。一枚の絵は、時に「物言わぬ社交家」ともなる。
古くを言えば室町から江戸時代にかけて完成された「茶道」で、茶室に掛けられた一服の「御軸」を鑑賞することや、庶民でも手に入る人気役者や、旅のガイドブックとも言える「浮世絵」など、我々日本人は、中世から美術に親しんで来た稀有な民族でもある。幕末に、日本の様子を視察に来た外国人が驚いたことの一つに、裕福とは言えない庶民の家の壁に、「浮世絵」が貼られていたことだった。海外では、絵画の鑑賞や蒐集は、「貴族の仕事」であり、「ノーブレス・オブリージュ」の一つでもあったからだ。明治に入り、「財閥」が生まれ、この感覚は日本にも引き継がれた。個人が泰西の名画の蒐集など簡単にできるはずもなく、財閥や富豪が集めた作品を、一堂に展観するのが「私設美術館」の嚆矢とも言えよう。
今は、ゴッホやルノアールなど、世界的に有名な画家の作品は、ポスターを見ただけでも区別できるほどの素養を多くの人が持っている。しかし、今から60年近く前に、世間を騒然とさせた事件が起きたことがある。この方の名前もだんだん歴史の彼方になりつつあるが、「藤山コンツェルン」の二代目で日本商工会議所会頭、大日本製糖の社長や日本航空の会長、大蔵大臣などを歴任した藤山愛一郎(ふじやま・あいいちろう、1897~1985)。
藤山には絵画・骨董の蒐集の趣味があり、昭和37年、川崎市の百貨店で開催されたいた西洋美術展に、ルノアールの小品『少女』を貸し出していた。しかし、この作品が展覧会の最中に盗難に遭った。
当時、衆議院議員の職にあった藤山は犯人に返却を呼び掛けた上、「無事にこの貴重な絵画が戻れば、犯人に対して罪は問わない。また、作品を私蔵することはせずに、公共の美術館に寄贈し、多くの人が展観できるようにする。だから、貴重な美術品を返してほしい」と呼び掛けた。その結果、事件から2か月後、路上に駐車中のトラックの荷台から、問題の作品が発見されるに至った。
藤山は約束通り、無傷で戻ったルノアールの作品を国立西洋美術館に寄贈した。今の価値に直せば、恐らく数千万円はくだらない品物である。しかし、「世界の芸術」の価値を重んじ、個人として所有することを放棄し、無事に還れば寄贈する、と言い切ったところは、「一流の見識」ではなかろうか。財閥の二代目であり、実業界から政界入りする際に、友人に「絹のハンカチを泥まみれにするのか」と止められた藤山の悠揚迫らざる銀髪の上品な面影にはそれが感じられる。
しかし、世の中は皮肉なもので、盗難事件は終結したものの、ルノアールの絵にまつわる話は方向を変えて世間を賑わせることとなった。藤山が私財を投じた高価な作品を寄贈したにも関わらず、美術館ではなかなか展覧されなかった。それは、当時、ヨーロッパの有名な画家の作品の「贋作」をせっせと描き、売り歩いていた画家・滝川太郎(1903~1971)が描いたものではないか、という疑いが出たためだった。滝川は、ルノアールをはじめ、セザンヌ、モディリアニ、コローなど、西洋美術の巨匠の作品300点以上の贋作を制作したと言われている。
今の我々が観れば、どの絵もオリジナルとは似ても似つかないことが一目瞭然ではあるが、昭和30年代の日本では、まだ泰西の名画がそれほどに遠い存在だったのだ。加えて、絵の真贋の鑑定の難しさ、という問題もある。
藤山にすればとんだとばっちりだが、「贋作問題」が話題になったのは、盗難事件が解決してからの話で藤山には責任はない。それ以前の段階で、私欲を制し、芸術のために自らの所有欲を放棄した藤山の見識は、人間として一流だったと言えるだろう。
日常での振る舞いはもちろんだが、大きな事件に遭遇した時の肝の据わり方で、その人物が一流かどうかを知ることもできる。藤山の言動ばかりではないが、あれこれと先人の顔を想い出すと、「一流」と呼ばれる人は行動も伴っているように思えてならない。
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