アメリカと戦端を開く日本の総理大臣となる運命を担うことになった東條英機は、ルーズベルトより一年おくれて明治十六年、陸軍中将東條英教の長男として生まれた。
東條家は能楽の宝生家から出ているが、英教は明治四年廃藩置県が行われた時に軍人になることを決心し、明治十年の西南戦争に下士官として従軍、翌明治十一年歩兵少尉に任官、後に新設された陸軍大学に入学、そこでプロシア(ドイツ)から指導にきていたメッケルに認められ、後に中将になった。
日露戦争ではメッケルの教えに忠実で、無理な攻撃などしなかったため、軍部内の評価は高くなかったという人もいるし、病気のため途中帰国したため、戦場での手柄がなかったという人もいる。
いずれにせよ、自分の長男の英機を軍人にし、厳しく育てた。そのため東條はこの父を怖れながら成長したという。そのせいか反動的に、自分の子供には甘い父親になったらしい。勝子夫人が「それでは子供の教育にならない」というほど子供を甘やかし、男の子たちの進路にも一切干渉しなかった。
東條は頭は緻密しかも勤勉で入念で真面目であったから、東京幼年学校を経て中央幼年学校を日露戦争勃発の年に繰り上げ卒業し、陸軍士官学校に進学、翌年に卒業して二十二歳で歩兵少尉となり、二十九歳の時に陸軍大学に入り、三十二歳の時に陸軍大学首席卒業し歩兵大尉になった。
その後スイスやドイツに出張、陸軍大学兵学教官を経て陸軍省の動員課長、参謀本部課長など、陸軍の中央部にいて、カミソリ東條といわれた明晰な頭脳の故に注目されていた。
東條が陸軍省内で頭角を現したのは陸軍の内規の集積である「成規類聚」を完全にマスターしたからだという。陸軍省内には属官が多くいて、元来は副官がやることをやっていた。
古い属官が元来は副官の仕事である軍務を握って、副官は頭が上がらなかった。東條は細かい規約をマスターして―――元来頭がよいのだ―――その時以来副官が本物の副官となった。これがかえって彼の出世のさまたげとなった。
昭和一ケタの頃、陸軍はいわゆる皇道派と統制派に分かれて権力争いをしていた。皇道派は真崎甚三郎大将や荒木貞夫大将を中心とする改革派で過激な青年将校に支持され、昭和維新を唱える連中が固まっていた。
今から見ると天皇をいただく過激社会主義軍人閥である。これに対して軍の秩序を重んずる派を統制派といい、永田鉄山中将や渡辺錠太郎大将などがその有力者だった。
しかし皇道派の青年将校の一人相沢中佐は永田中将を白昼その執務室で斬殺し、渡辺大将は二・二六事件によって高橋是清らの重臣らと共に惨殺された。
テロあるいは革命を是とする皇道派から見れば、東條は明らかに軍の統制を重んずる側であるから、皇道派の盛んだった時代には参謀本部から左遷され、陸軍士官学校幹事、歩兵第二十四旅団長という工合に中央からとばされて、少将ぐらいで予備役に廻されそうになっていた。
東條の能力を惜しんだ士官学校同期でたまたま人事局長であった後宮惇が東條を関東軍憲兵隊司令官に任じた。するとその翌年に、二・二六事件が起こった。
この時の満洲における東條の迅速で断固たる処置は万人を感嘆せしめ、二・二六事件後の林内閣の時には関東軍参謀長、それに続く近衛内閣では陸軍次官として昭和十三年に中央に呼び戻される。
この頃の参謀総長は閑院宮という宮様であるが、この宮様は皇道派嫌いであった。そして第二次近衛内閣では東條は陸軍大臣となる。この頃私は小学校四年生であったが、奇妙に東條の姿を覚えている。
ニュース映画で見たのだと思うが、戦局が切迫しつつあった時、陸軍を抑えることのできるのは東條という人だけだ、という話を子供でも耳にしていたらしい。「二・二六事件以降、日本政府は陸軍の言いなりだ」ということは子供の間でも常識になっていたのではないか。
近衛内閣は行き詰って組閣の大命は東條に下される。陸軍を抑えることのできる人でなければ外交も何も出来ないことが重臣たちにも明らかだったのだろう。
首相になった途端に東條は日本の置かれた立場を広い視野から見ることができたし、また昭和天皇の意志が日米和睦にあることを知ったので、天皇に忠誠だった東條は平和のために全努力を傾ける。
しかし遅かった。石油が入らなくなった状況では、何でもアメリカの言うようになるか、あるいは石油のあるうちに連合艦隊や航空機を使って戦争に突入するか、どっちかの選択肢しかなくなっていたのだ。
東條は軍事官僚としては抜群であった。戦場の司令官としてもチャハル・スイエン方面における東條兵団の成功はめざましいもので彼が政治に引き込まれなかったら、名将として名を残しただろうという人もいる。
首相になってみると日本の首相にはアメリカやイギリスやソ連やドイツなどのようなリーダーシップは取れない構造になっていることを発見した。それで軍政と統帥を一手に握るため首相でありながら陸軍大臣と参謀総長を兼任したほか、内務大臣、外務大臣、文部大臣、商工大臣、軍需大臣をも兼任したことがあった。
しかし、現役の陸軍大将である彼が海軍に干渉することはできない。日米戦争の大部分は海の上で行われていたのに。敵のルーズベルトがニューヨーク州上院議員の時、東條はまだ中尉で、妻はたった二円の浴衣を買うのも実家からお金を出してもらうほど貧乏だった。
ルーズベルトが大統領になった時もまだ東條は士官学校の幹事である。その後の出世は早いと言っても陸軍部内での軍事官僚としてである。東條が五年早く陸軍大臣になっていたら二・二六事件は起こらなかったと思われるし、その後の日本の運命も違っていたであろう。
チャーチル、ルーズベルト、スターリン、ヒトラーなどなど、すべて政治家であった。東條は突如、政治を押しつけられた軍事官僚であり、しかも日本の政治制度には陸海軍の上に立つ政治権力は消えていた。
名目上は天皇が陸海軍の上にあるのだが、自らイニシアチブを取ることは憲法上できなかった。戦前の日本のリーダーの悲劇が東條という軍人に凝固しているように思われる。
渡部昇一
〈第32
「東条英機 」(上・下巻)
亀井宏著
光人社NF文庫 刊
上巻 960円(税込)・
下巻1,000円(税込)