イギリスの画商のスリーパー探しの番組を見た。スリーパーというのはその価値がわからず、安い値段でオークションに出てくるような絵画のことである。
スリーパーとは、つまり本当は重要な作品であると判明すれば二百万円ぐらいのものが百億円以上の値がつくこともある作品のことである。そのスリーパー探しの名人といわれるモールド氏が、アーサー皇太子の肖像画を発見する話があって、大いに興味を牽かれた。
アーサー皇太子(一四八六~一五〇二)はイギリス国王ヘンリィ七世と、ヨークのエリザベス(国王エドワード四世の長女)の間に生まれた長男である。当然イギリスの次の国王になる人であり、すでにプリンス・オブ・ウェールズ(英国皇太子)の称号も与えられていた。
彼より一歳年上のキャサリン・オブ・アラゴンとの結婚が国王同士の間ですすめられた。キャサリンの母は有名なスペイン女王イザベラである。
花婿アーサーは十五歳、花嫁キャサリンは十六歳である。しかし結婚の翌年、アーサー皇太子は病没し、その六年後にキャサリンはアーサーの弟のヘンリィと結婚させられる。キャサリンは二十三歳、ヘンリイは十八歳。このヘンリィが後のイギリス国王ヘンリィ八世になる。
テレビの話はこのアーサーの肖像が一つも残っていないとされていたのにスリーパーとして発見されたという話であった。
ここで興味があるのは、アーサー皇太子が結婚翌年に夭折したという偶然によって、弟のヘンリィがイギリス国王となり、キャサリンがその王妃になったことである。というのはこの偶然によってカトリック国イギリスが、プロテスタント国イギリスになるという大事件が起るからである。
この頃は王家同士の結婚は、日本の大名同士の結婚の如く政略結婚である。強大なスペインとの結婚はイギリス国王ヘンリィ七世の望むところであった。しかし皇太子はすぐに病没した。
それでその未亡人を六歳も年下の次男のヘンリィの花嫁にしたのである。(兄が戦死したので、その未亡人と戦死者の弟を結婚させて家を継がせた例が私の近所にもあった。)そしてヘンリィ八世とキャサリンの間に子供も産まれた(後のメアリィ女王)。
そのうちイギリスとスペインの関係も面白くなくなった。ヘンリィ八世は六歳も年上の兄の「お下がり」よりも、十六歳も年下のアン・ブリンという女性に牽かれる。
アンは父がフランス大使であったこともあり、フランス宮廷にも出入りし、洗練された美人であった。しかもキャサリンより二十二歳も年下なのだ。ヘンリィ八世がアンを愛妾とした時、アンは芳紀まさに二十歳、キャサリンは四十二歳、つまり初老だ。
年齢は昔も今も、特に昔は、女性に残酷である。二十二歳も年下の美人にはキャサリンも勝てない。ヘンリィ八世は後にキャサリンを捨て、アンと正式に結婚しようとする。(後のエリザベス一世は二人の間の娘)。ヘンリィ八世の命令でカンタベリ大司教のクランマーは、ヘンリィ八世とキャサリンとの結婚無効を宣言し、アンとの再婚を可能にする。
しかし当時はイギリスもスペインもカトリック国だ。ヘンリィ八世とキャサリンの結婚はローマ教皇ユーリウス二世が承認したものである。カトリックでは原則として離婚は認めない。
結婚が実質的に成立していなかったことが証明されれば離婚も認められるが、ヘンリィ八世とキャサリンの間には子供も生まれている。離婚の理由は成立しないのだ。
ヘンリィがアンを妾にするのを教皇はもちろん黙認し全く問題にならないが、スペイン王の娘が正式に離婚されたのではローマ教皇としても面目が立たない。教皇はヘンリィ八世を破門する。
ヘンリィ八世は自らがイギリスの首長となり、イギリス中の修道院の破壊と掠奪をやる。信長は延暦寺を焼き、一向宗徒を殺したが、ヘンリィはイギリス中に巨大な財産・土地などを持っていた大修道院を没収した。それでイギリスには意外にも中世の写本が今日あまり残っていないのである。
離婚話からイギリスがカトリックでなくなった、という大事件が起きた。その大変革が成功したのはヘンリィ八世はリーダーとしては断乎としていたからである。
ヨーロッパ大陸でも、またイギリスの島の中でも戦にはいつも勝っている。尨大な教会財産を取り上げて気前よく部下にくれてやったので、新貴族たちはヘンリィ八世に忠義であった。信長が日本の中世に終止符を打ったように、ヘンリィ八世はイギリスの中世に終止符を打ったのである。
ついでに言っておけば彼の二番目の妻アン・ブリンは不貞の理由で処刑され、三番目の妻ジェーン・シーマは病死、四番目のアン・オブ・クリーブスは離婚、第五番目の妻キャサリン・ハワードは斬首刑、六番目の妻キャサリン・パーだけはヘンリィ死後まで生きのびた。
六人の妻と結婚し、二人を処刑、二人を離婚、一人には病死された男を艶福家と言えるかどうか。
渡部昇一
〈第30
「ヘンリー八世の六人の妃」
フレイザー,アントーニア著〈Fraser,Antonia〉
森野 聡子・森野 和弥 訳
創元社 刊
4,410円(税込)