後継ぎ候補を絞れ
組織経営者というものは、老いが進んで人生の残り時間が心もとなくなってくると、後継者問題が一番の気掛かりとなる。社内からの抜擢であれ、外部からの引き抜きであれ、サラリーマン社長を選ぶ大企業なら、能力を第一の選定基準とし、せめて社内派閥に気を配ればいいだけだが、「創業家の血筋から選ぶ」との制限がつく中小企業なら悩みは深い。長男を後釜に据えるのが穏当だが、その人格、能力にクレームがつくと、ひと悶着起きることになる。
唐帝国の名君・太宗(たいそう)もご多聞に洩れず、悩ましい日々を送った。太宗には皇后との間の男子だけでも14人あった。さらに妾腹の庶子を含めると有資格者は40人に上る。
貞観の治世も16年目に入り、太宗も50に手が届くころ。今なら壮年だが、当時の50歳は老年の域に足を踏み入れている。太宗は御前会議で側近たちに、「現在、国政に関して最も急を要する課題は何だ」と下問した。
「人民の生活を安定させることが第一かと」「いや四方の異民族の鎮撫こそ急務でしょう」「『論語』にいう礼儀の確立こそ優先させるべきです」など、さまざまな意見が出たが、最後に諌議大夫(かんぎたいふ)の褚遂良(ちょ・すいりょう)が進言する。
「今の世は、陛下の聖徳により平穏に治っておりますが、ただ一つ課題が残っております。それは、後継ぎとなる皇太子と親王たちの立場にケジメをつけるべきかと。(後継問題について)陛下は原則を定め、後世の手本として残す必要があります。それこそが焦眉の急務でありましょう」
太宗は痛いところをつかれたと唸った。彼は皇帝即位とともに長男の李承乾(り・しょうけん)を皇太子に立ててはいたが、評判がよくない。他にだれか適材はいないかと心が揺れ、だれが後継者なのか判然としない状況に陥っていた。「目の黒いうちに後継者を早く絞り込みなさい」と、ずばり指摘されたのだ。
師弟の側近と守役の年限
「褚遂良のいう通りだ。わしもまもなく50歳を迎える。すでに衰えを感じている。急ぎなんとかせねばならんな。古来、嫡子であれ庶子であれしっかりした後継者に恵まれなければ、結局国を傾けてしまうものだ」
そして、こう命じた。「お前たちには、皇太子と親王たちの補佐役として、能力、人格ともに優れた人物を推薦してほしい」。そして付け加える。「条件が一つある。親王に仕える補佐役は長く仕事をさせてはいけない。同じ人物が長く一人の親王の下で仕事をすると、情が移って、『わが主君を次の皇帝に』とよからぬ野心が芽生えてくるからだ。親王府の官僚は、任期四年を限度とせよ」。
余りに多い後継候補があれば、派閥が生まれ、先帝が亡くなった途端に抗争が起きるのは予想される。それを防ごうとの下命ではあった。しかし、一見もっともとも見えるこの命令には前提が欠けている。
自らの衰えを自覚するこの時点になっても、「長男の皇太子、李承乾こそ後継者である」という強い意志が感じられないのだ。褚遂良の進言の肝心な部分が抜け落ちている。太宗の心が揺れているのがわかる。
混乱の後の後継指名の結末
さて、後継指名をめぐる太宗の揺れは、安定しているかに見えた大唐帝国を混乱へと導いてゆく。当初の皇太子であった長男の承乾は、やんちゃ息子であった。それだけに太宗は帝王教育に意を注いだが、長じるに連れ、太宗がつけた補佐役の意見も聞かなくなる。やりたい放題で手に負えないとの評判があちこちから太宗の耳に入るようになる。
大唐の皇帝なら先生の意見も聞かないぐらいの暴れん坊が適役だと思うのだが、太宗の愛情は、文学にも秀でた理知的な四男で魏王に封じられていた李泰(り・たい)に傾くようになる。しかし泰は、知に走りすぎて陰謀を駆使する野心家であった。父の愛情をいいことに皇太子の地位を奪おうと考えるようになる。こうなると恐れていたことが現実となる。後継レース無秩序状態の中で、五男の祐(ゆう)が補佐役を殺して謀反の兵を挙げる。一連の事件で、祐が誅伐され、承乾も皇太子の地位を追われた。可愛がっていた泰も謀反の陰謀がばれて後継レースを外れる。
結局、ただおとなしいだけが取り柄の、九男・治(ち)が後を継ぎ、第三代の高宗となる。しかし何事も決断できない彼は皇后・則天武后(そくてんぶこう)の言いなりとなり、唐は衰退してゆく。
それにつけても思い出されるのは、徳川家康が、関ヶ原に遅参し「器にあらず」と直参たちに評判が悪かった秀忠を、揺るがず2代め将軍に推し続けた後継問題での決断である。
『貞観政要』を愛読し、出版までした家康は、後継者問題での太宗の大失策を、反面教師として学び後代に伝えたに違いない。それが260年の長期政権を固めることになった。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『貞観政要 全訳注』呉兢著 石見清裕訳注 講談社学術文庫
『貞観政要』呉兢著 守屋洋訳 ちくま学芸文庫