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人間学・古典

第76回 「初一念」

令和時代の「社長の人間力の磨き方」

 最近、「初心忘るべからず」と「初一念」が混同して使われているケースが多いような気がする。年を重ねると、とかく言葉咎めをしたくなるものだが、誤解は解いておかねばならないだろう。


 「初心忘るべからず」は、「最初に抱いていた『青雲の志』を忘れないように頑張ろう」などの意味で使われることが多いが、これは誤解だ。この言葉は、能を大成した世阿弥(1363?~1443)が、芸談『風姿花伝』の中で語ったものだ。「最初に演じた時は、あんなに下手で恥を掻いた。その時の気持ちを忘れることなく、芸道修行に励もう」との意味だ。


 「初一念」は、まさに物事を思い立った時のやる気をそのまま持続し行動することで、「雨だれ、石をも穿つ」など、さまざまな言い方でその内容があらわされている。しかし、たった三文字の漢字で表現されることを行動に移すのは、至難の技だ。

 

***

 

 何事も、経験を積めば慣れてくる。その慣れが「狎れ」に変わると、傲慢と言われる。平成の名人とも言うべき噺家・立川談志(1936~2011)もよく傲慢だと言われた。照れ隠しも多分に含まれてはいたものの、そう取られても仕方がない発言も多かった。才気煥発な談志は、そうした声に対し「俺は自分が傲慢であることを隠すほど傲慢な人間ではない」と反論した。かなり強引な返答であるようにも思うが、言いたい放題のような高座の中でも、自分が世間からどう評価されているかを冷静に見つめ、受け入れる眼を持っていた、ということだ。


 誰しも、他人からの評価は気になるものだ。何か言われるぐらいで済めばまだ傷は浅いが、場合によっては収入を左右することにもなりかねない。とは言え、そればかりを気にして右顧左眄の日々を送るのも気が詰まる。人生とは面倒なもので、青雲の志で「初一念」を立てた時期には、こんなに面倒で余計な問題に見舞われ、それに時間やエネルギーを奪われ、ひいては傷つくことさえあるなど、考えもしなかった。若さの特権の一つだろう。

 

***

 

 私事にわたって恐縮だが、今から50年近く前、ジャンルを問わずに素晴らしい舞台の数々に触れて魂が震えた。折から、各分野で名優・名人と言われた人々が、最後の大きな花を咲かせ、落日へと向かう時期だった。


 自分ではこんなことはとてもできない、しかし、この感動を文字で残し、まだ演劇の魅力を知らない人に伝えることをしたい、と考え、「演劇批評」の道を選んだ。いわば、これが私の「初一念」だ。しかし、これはどこでも同じだろうが、一つの世界である程度の期間仕事をしていると、徐々に先輩たちが欠け、いつの間にか序列が上がっている。それで何か得をしたとは思わないし、それが嬉しいとも考えない。さらに、好むと好まざるとに関わらず、その世界が持つ政治構造や力学に否応なしに巻き込まれてゆく。


 これが、いわゆる「大人の世界」であり、少年の時に抱いたような文学青年のままで一生を生きることなどできないのだ、と自分を取り巻く現実に否応なく気付かされるのだ。社会の中で生きる以上、他者との関わりを避けることは不可能であり、今述べたようなことは、どの社会でも起きている。


 それを否定することはできないが、そんな日常に疑問を抱いた時に、私の頭の中にある芝居の台詞が浮かぶ。歌舞伎の二代目松本白鸚(1942~)が、前々名の市川染五郎時代から半世紀以上の歳月を掛け、1200回以上の数を重ね、80歳の「傘寿」で演じ納めたミュージカル『ラ・マンチャの男』。遍歴の騎士、ドン・キホーテの物語で、「見果てぬ夢」は優れたミュージカル・ナンバーでもある。この作品で、自らの狂気を激しく問い詰められ、なじられたドン・キホーテは言い放つ。


 「確かに、夢ばかりを追い駆け、現実を見ないのも狂気かも知れぬ。また、現実に囚われ、夢を追わないのも狂気かも知れぬ。しかし、本当の狂気とは何だ? あるがままの姿に折り合いを付けてしまい、あるべき姿のために闘わないことだ!」。私は、舞台でこの台詞を聴くと、日常に流され、「初一念」を遥か遠くへ置き去りにして日々を過ごしている自分の怠惰に対して、刃を突き付けられたような気分になる。


 それは、個人的にも親しいお付き合いを30年以上続けていただいている松本白鸚の生き方そのものでもあるからだ。自分よりも遥かに年長の大ベテランが、あるべき姿のために闘っているのに、私がそれを放棄する理由はなく、また、放棄してはならないのだ、とも思う。


 そして、心の中にある水浸しのスポンジをぎゅっと絞り、水を切る。肉体の年齢を巻き戻すことは不可能でも、せめて青雲の志だけは洗い直し、初一念を貫き通せるように今ひとたび考え直すことにしている。一度や二度、それをしたからと言って、だらけた日常に狎れた気持ちは洗い直して白くはならない。繰り返し何度も洗濯をし、浮世の垢を落とすことは想像以上に大変で苦しい。しかし、ここを超えなければ、日々新たな気持ちで迎えることはできない。私の「初一念」に嘘をつきたくはない。

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