英国戦略の揺れ
ナチスドイツにどう立ち向かうか。第二次世界大戦の前段階とドイツのポーランド侵攻直後の英仏両国の対応は複雑に揺れた。英国保守党のチェンバレン政権は、ヒットラーが率いるナチスドイツの膨張政策に強い警戒心を抱きながらも、欧州主要部への拡張を狙うソビエト・ロシア(ソ連)への危惧も根強かった。
ソ連首相のスターリンは、1935年にコミンテルン(世界共産党組織)を通じて、各国の人民戦線の活動強化を指示している。王制を敷く国の多い欧州では、ソ連による共産主義思想の輸出は体制の崩壊に直結するとして身構える。こうした中でドイツは、1936年に日本と日独防共協定を結んでいる。あくまでコミンテルンの国内非合法活動への対応を目指したものだが、秘密協定書で、「ソ連を仮想敵とみなす」としていた。翌年にはイタリアも参加して、日独伊三国の防共協定に発展している。欧州各国の共産主義アレルギーを巧みに利用し「われわれは敵ではないよ」と牽制している。ナチスドイツの膨張主義の矛先が東方のソ連に向かっている限りナチスドイツは、共産主義の防波堤となり、ある意味で英国、フランスも歓迎すべき情勢だ。少なくとも様子見を強いる戦略だ。その中でチェンバレンが選択したのがヒットラーに対する宥和(ゆうわ)政策の選択だったというわけだ。
ところがドイツは、ソ連との間で不可侵条約を結び、東部戦線を安定させた上で、矛先を西に転じ、西ヨーロッパ諸国を一気に蹂躙する戦略をとる。
敵の敵は味方、米国の参戦
この頃のチェンバレン政権周辺の揺れについて、外交官でチェンバレンの秘書官だったジョン・コルヴィルは日記の中で、政府高官による、チェンバレンとの会話での発言を書き留めている。
「いまや共産主義が重大な脅威となり、しかもナチス・ドイツ以上に重大な脅威だと思う。ヨーロッパの独立国はすべて反ソ的だが、共産主義は国境で制止できない疫病のようなものであり、ソ連がポーランドに侵攻した今、東欧諸国は共産主義に対する自分たちの抵抗力がいちじるしく弱まったことに気づくだろう。英国にとって何より重要なのは、ロシアときわめて慎重に駆け引きを行い、(中略)ドイツ国内の穏健で保守的な揺りもどしが起き、現在の政体(ナチス政権)が、陸軍首脳によって転覆されることだ」(1939年10月13日)。
戦時に書き留められたこの発言は予言めいており、事態はこの通りに進んでいく。1940年5月、ドイツ軍の西部戦線における電撃侵攻の日に政権をチェンバレンから引き継いだチャーチルは、予言通りに戦略を立てていく。
英国島に立てこもる形で孤独な徹底抗戦を決意したチャーチルの頭にあったのは、米ソ両大国を対独戦争に引き込むことだった。第一次世界大戦後、一国主義(モンロー主義)を貫く米国を説得して、英米両国で対ソ軍事支援に乗り出し東部戦線を支えさせる。共産主義アレルギーを乗り越えて、「敵の敵は味方」と割り切った外交戦略だ。米国は、チャーチルの粘り強い説得に応じ、日本軍の真珠湾攻撃を機に連合国の一員として参戦する。1944年の連合軍大陸反攻(ノルマンディー上陸)は、チャーチルが引き込んだ米国の強大な軍事力無しには実現されなかった。
終戦は冷戦の幕開け
そして終戦。ヨーロッパは東西両陣営に勢力圏が分割され、対日戦線は、日ソ不可侵条約を破ったソ連軍が満州、朝鮮半島になだれこむ。当初、ソ連が目論んだ北海道占領は米国が阻止し、朝鮮半島でも北緯38度線以南へのソ連軍進駐を認めなかった。やがて、欧州には鉄のカーテンが引かれ、東西両勢力は、冷戦という名の激しい体制競争に突入する。
戦後、連合国(実質は米国)の占領と米国の核の傘の庇護下で長らく平和を享受してきた日本の外交は、味方(米国)と敵(米国以外)を一元的に単純化してとらえがちだ。
しかし、現在、日本を取り巻く国際情勢は、米国と中国という二大国がしのぎを削る厳しい外交舞台となっている。長い外交史を持つヨーロッパの国々が培ってきた、国益を守るためのしたたかな外交に学ぶべき時がやってきた。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考資料
「第二次世界大戦 1、2」W・S・チャーチル著 佐藤亮一訳 河出文庫
「独ソ戦」大木毅著 岩波新書
「ダウニング街日記 首相チャーチルのかたわらで 上」ジョン・コルヴィル著 都築忠七ら訳 平凡社
「危機の指導者チャーチル」冨田浩司著 新潮選書























