【意味】
無能な役人を更迭すれば、その者の一家が泣くことになる。しかし若し更迭しなければ、州(路)の全人民がその無能ぶりに泣かされることになる。どちらが益しであろうか。
【解説】
「宋名臣言行録」からの言葉です。
副宰相の范沖淹(ハンチュウエン)が、自らの政策を断行するために無能な行政官を次々と更迭し、若手に切り替えたことがありました。その容赦のない人事を咎める者に対して、范沖淹の反論の言葉が掲句です。
組織は、その構成員一人ひとりが地位相応の責任を分担し、その分担が重なり合って初めて全体が保たれるものです。弱くなった部分は、周囲の負担になるばかりでなく、綻び破綻を生む原因にもなります。よってトップは弱い部分を作らないことと共に弱くなった部分を如何に補修強化していけるかにかかっています。
このように考えれば、弱くなった分担者を更迭して取り変えようとすることになりますから、掲句の范沖淹の人事は立派な組織改善策の一つになります。
しかし冷徹な人物は、しばしば失脚派の反撃に遭います。なぜかといえば、更迭をされる側から考えてみますと、地位には権限と待遇が付与されていますから、降格や解職により悲哀な境遇となり、人事権限者に対して激しい恨みを持つことになります。また飛ぶ鳥を落とす勢いの人事権限者でも降格対象者と同じ組織の一員ですから、組織内の長い間の力関係においては立場が逆転することも珍しくないからです。
ではどのような人事をしたらよいかとなりますが、不完全な人事権者の自分が、不完全な部下を駒にして、不完全な人事組織を決めさせていただく心境、つまり「理想の人事配置がないにもかかわらず、敢えて人事配置を行う申し訳け無さ」を感じて行う必要があります。
人事のもう一つは、器量と才能の何れを優先するかという問題です。その立場が低い者の人事は才能優先でよいですが、立場が高くなれば人物器量が優先されます。人間学では「政(経営)を為すに人に在り」といわれますが、大きな組織の部下掌握となれば一種の経営ですから、器量と才能のいずれかを選ぶとなりますと器量優先となります。
意外に盲点となっている上位役職者への登用留意点ですが、以下に述べてみます。
(1)誰もが地位を得ると喜びますが、昇進とは今後の器量拡大を期待しての先行登用となる場合がほとんどです。本当に喜べるのは自己鍛錬を心掛けた結果、その者の器量が拡大された数年後であるということです。登用をゴールと錯覚して精進を怠りがちになりますから、昇格前に未来を期待しての登用である旨を自覚させることが大切です。
(2)同じことがトップの経営陣にも当てはまります。人事というと部下の配属ばかりを考えがちですが、トップ経営陣の器量が業績に比例して向上しないと極めて危険です。売上高が一桁大きくなれば経営陣も自己鍛錬して一桁大きくなる必要があります。企業規模の割に人物器量が小さいままの経営ではガードが弱くなるため、豪華社屋の建築や経費浪費が増えて、折角の業績向上が仇となってしまう場合も多く見受けられます。