江戸時代末期、全国各地に、後に日本の命運を担う人物たちが学んだ
私的な小さな塾が続々と開かれた。
長州の萩で吉田松陰が主宰した「松下村塾」は、
松陰が安政の大獄で亡くなるまでの、わずか3年間の教育で、
久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、桂小五郎をはじめとする
維新の原動力となる数々の逸材を輩出した。
今再び、幕末維新がごとく、少数精鋭の仲間で学び合う、
「私塾」の時代が到来しつつある。
日本津々浦々で、さまざまな分野の塾が次々に産声を上げている。
私の周囲でも、全国各地の経営者とともに、
開塾する運びとなった。
10月28日、11月21日、12月16日の3回連続講座として、いずれも13時~18時、
六本木ヒルズ森タワー51階の「六本木ヒルズクラブ」にて行なう。
事務局は、1965年(昭和40年)に、牟田學理事長の
「中堅・中小企業の成長発展こそが日本経済の活性化に不可欠」との信念に基づいて創設されて以来、
成長企業の経営者が集う梁山泊となってきた「日本経営合理化協会」に担っていただく。
経営者たるもの志を高く掲げ、実践し、成し遂げようではないか。
志あるところ道は開ける。来たれ、同志よ!
◆激動期には「私塾」が生まれる
江戸時代も後期になると、一般大衆は実態を知る由もなかったが、幕藩体制にはほころびが見え始め、
黒船来航以前から欧米列強によるアジア各地の植民地化が進んでいた。
表面的には天下太平を装っていたものの、いかに臭いものにフタをしたところで、
本当のことはいつの間にか伝わってしまうものだ。
人々の真実・真理を知ることに対する意識が高まって行った。
そういった世の中の動きに呼応して、全国各地に「私塾」が続々と産声をあげた。
寛政年間(1789年~1800年)から「私塾」の開設が活発化し、文化・文政(1804年~1829年)以降、
幕末にかけて急速にその数が増えて行く。
各地に開設された私塾の数は、『日本教育史資料』に記録されているものだけでも1300校余にのぼる。
「私塾」とは、文字通り、私的に設けられた少人数制の小さな学問所のことだ。
神田・湯島に設立された武士を対象とする江戸幕府直轄の「昌平坂学問所」(昌平黌=しょうへいこう)や
各藩の藩校といった官学と、一般庶民の子弟が読み書きそろばんを習った寺子屋(手習所)の
中間に位置する教育機関だった。
その多くは、年齢を問わず、地域で教えを請われる人を中心として、
自然発生的にできた成人のための学びの場だ。
武士だけが通える塾や、すべての人に開かれた塾など対象は様々だった。
幕府や藩が開く官製の教育機関と異なり、型にはまらず、塾主の独自の個性と参加者の自発性を基盤に、
世の中のニーズ・ウォンツを巧みに取り入れて発展した。
教授される内容は様々だったが、江戸末期になって各地に黒船が来航する前後から、
尊王攘夷の思想を反映して伝統的な国学や漢学を学ぶ塾が人気を呼んだ。
また一方で、逆に西洋の進んだ文化・文明を一早く学ぶための蘭学や西洋医学の塾も
人気を博するようになって行った。
当時開設された著名な「私塾」を挙げるとすれば、その筆頭は、
吉田松陰が主宰した「松下村塾」(山口県萩市)に違いない。
後に維新回天の原動力となる数多くの逸材が輩出した。
また、緒方洪庵が大坂(大阪府大阪市)に開いた蘭学塾の「適塾」(適々斎塾)では、
大村益次郎、福沢諭吉、大鳥圭介、橋本左内、長與專齋、佐野常民、高松凌雲といった
日本の近代化に貢献した数多くの人材が学んだ。
大坂では、「大塩平八郎の乱」を起こした大塩平八郎による「洗心洞」や、
町人たちの出資によって創設され学術の発展と商道徳の育成に大きな役割を果たした
「懐徳堂」が歴史にその名を刻む。
長崎では、出島のオランダ商館医として来日したドイツ人医師シーボルトが
出島外に蘭学を教授するべく開設した「鳴滝塾」が日本の医療の発展に大きな足跡を残した。
以下、私的な塾から半官半民のものまで、全国各地に開かれた主だった塾を列挙する。
倒幕・維新回天のための政治結社化した塾や、最新の医療や学問の拠点となり、
明治以後、大学に発展して行った塾などもある。
◆来たれ同志よ、「ビジネス志成塾」へ!
幕末維新と同じく、我が国が内憂外患を抱える今、全国各地にさまざまな「私塾」が立ち上がっている。
私は、毎週のように、各地の商工会議所や経済同友会、青年会議所、地域新聞社主催の政経懇話会、
地方自治体や業界団体、企業主催の講演会の講師にお招きいただいたり、
地域活性化や観光振興・物産振興の
プロジェクトのプロデューサー、アドバイザー、コンサルタントとしてうかがっている。
そういった際に必ずと言って良いほど、老若男女の参加者や関係者から、
「りゅうじんさんが主宰する塾や勉強会はないんですか?もしあれば、ぜひ参加して学びたい」
と声をかけられる。
そのたびに、常々何かアクションを起こさねばという気持ちが高まってはいた。
ただ、私自身、まだまだ発展途上の人間である。うかがった地域でお会いした方々から、
逆に元気を頂戴し、学ばせていただくことの方が多い。
塾を自ら主宰するなど、おこがましいと思っていた。
しかし、日増しに塾開催を求める声を数多くいただくようになり、私が一方的にお話するのではなく、
共に学び合う場を創ることが吾人の使命ではないかと考えるようになった。
私のテーマは、元気な会社・元気な地域を創ることだ。
そのために、企業経営者、自治体の首長、官公庁や団体の職員、ビジネスマン、OL、主婦、学生など、
あらゆる人を少しなりとも元気にするお手伝いをしたいと念じて活動して来た。
中でも、まず第一に大切だと考えたのは、地域で格闘している企業経営者を元気づけることだ。
もちろん、お金儲けがすべてではない。
しかし、資本主義の世の中においては、善意だけでは物事は進まないし、現実を改善することはできない。
二宮尊徳翁の言葉の通りだ。
「道徳を忘れた経済は罪悪である。しかし、経済を忘れた道徳は寝言である」。
地域の経済を支えているのは、全企業数の99.7%を占め、全雇用の7割を産み出している中堅・中小企業である。
バブル崩壊、リーマンショック、失われた20年、大震災、超円高、アベノミクスと
ジェットコースターのような経済情勢の変化をものともせず、雇用を守り続ける、
地域に根差した企業こそが日本の元気の礎だ。
その中には、規模は小さくとも、国内のみならず海外においても、
商品の質の高さやオンリーワンの技術力を誇る企業も少なくない。
多くの場合、そういった企業は、大家族主義・終身雇用・年功序列といった日本株式会社の美徳を失わず、
オーナー経営者が財産を担保に入れ個人保証しつつ経営の舵を取っている。
英語を社内公用語とするような、いわゆるグローバル企業ではない。
しかし、本当の意味で、「地球的に考え、地域的に行動する」ことを旨としている。
その在り方は、株主利益の極大化だけを目指す、欧米流のハイリスク・ハイリターン経営の真逆にある、
言わば、「真・日本的経営」だ。
ところが、商品や技術は負けていないのに、売り方、発信の仕方を知らないことも多い。
そんな事業家を支援し成長させることこそが元気な日本を創るに違いない。
ツイッターやフェイスブックなどのSNSを通じて、いつでもどこでもつながれる時代になった。
しかし、ネット上では何でも本音で語れるはずがなく、すべてをオープンにできる訳もない。
腹を割って真剣に議論し合える、少人数のリアルな「私塾」だけが、それを可能にするのだ。
私がその触媒となれれば、これに勝る喜びはない。
志あるところ道は開ける。来たれ、同志よ!
経営者たるもの志を高く掲げ、実践し、成し遂げようではないか!