広軌線路による新幹線建設に燃える第四代国鉄総裁の十河信二(そごう・しんじ)。
予算獲得に向けて政治家詣で、そして世界銀行の融資実現に向けて奔走する一方で肝心の技術面でも布石を打っていた。
総裁就任直後、「輸送力増強は在来の東海道線の増強で足りる」と新幹線構想に否定的な技師長を更迭する。
技師長といえば、国鉄の技術陣を率いるトップだ。その協力なしには新幹線は走らない。
「親父さんの弔い合戦をやらんか」。十河が技師長の後任として口説いたのは、島秀雄だった。
戦前からSLの設計士としてD51など数々の名機を生み出した島は、戦後、電化時代の到来に、湘南型電車を設計した。
同じ電化でも機関車が客車を引く列車より、各車両に備えられたモーターで走る分散動力方式の電車の時代がやって来る。その先に島は広軌の新幹線を見据えていた。
しかし、昭和26年に198人の死傷者を出した桜木町電車火災事故の責任をとり国鉄を去った。
国鉄の官僚主義と無責任体制に嫌気がさし、民間会社の取締役に職を得た島は、十河の再三の復帰要請にためらいを見せた。
その島を突き動かしたのは、「親父さんの弔い合戦」のひと言だった。
これには少々説明がいる。
明治維新後、全国に鉄路を敷設しはじめた日本は、技術指導を仰いだ英国のアドバイスで「狭軌」(※編集注1)を採用した。しかし、明治初期から「広軌改設」の議論が絶えなかった。
それが、「広軌化よりも、うちの選挙区に鉄道を敷くのが先」という政治家たちの“我田引鉄”の動きに翻弄され、何度も浮上しては挫折してきた。
十河を戦前の鉄道院に引き込んだ都市計画の第一人者・後藤新平がリードして来た広軌改設は、大正7年、鉄道院が政治圧力に屈し、「日本ノ鉄道ハ狭軌ニテ可ナリ」と決議するに至って、ついに葬り去られる。
この時、鉄道院技監として広軌派の技術トップだった島の父、島安次郎は鉄道院を去った。
「やりましょう」。島秀雄が父の、そして後藤新平の無念を想い、国鉄副総裁格の技師長に就任する。十河は「私には技術のことはわからない」と公言し、技術面は全面的に島に託す。
十河と島、二頭立ての馬車を得て新幹線構想は驀進を始める。
常識を覆すプロジェクトを動かすには、広く時代の先を見通す力と、信念に基づく政治力とともに技術的裏付けが不可欠だ。そして事の成否は、人をいかに得るかにかかっている。
万難を排してそれを牽引するのが真のリーダーシップなのだ。 (この項、次週も続く)
(※編集注1) 狭軌とは、鉄道のレールの間隔が標準軌間(1.435メ-トル)より狭いもの。日本のJRの大部分は1.067メ-トルで狭軌。⇔広軌(出典:広辞苑)