皇太子である大友との戦いに勝利した皇太弟・大海人(おおあま)は、戦勝後1か月半を美濃の不破にとどまり、戦後処理に専念する。
死罪は、近江朝廷の右大臣・中臣金(なかとみのかね)らわずか七人だけで、その他の大友の側近の多くは流罪にとどめられ、官僚たちは新朝廷で重用した。
先帝の天智が大友を後継者に指名した事実を踏まえれば、大海人の挙兵は謀反、軍事クーデターである。大友がいまだ公式に最高位に就任していなかったとしても、跡目争いを巡る「私闘」のそしりは免れない。
事実、皇国史観を維新の大義にすえた明治政府は困惑する。
朝廷に弓を引いた壬申の乱はまずい、との判断から教科書の記述から外したこともある。
しかし目を当時の東アジアの国際情勢まで拡大して俯瞰すれば、壬申の乱の違った側面が見えてくる。乱後の動きを見る必要がある。
大海人は672年9月に飛鳥の古京に戻り、そこを都に定め、翌年、天武として即位する。
天智が皇太子時代から外交を担当した7世紀の倭(日本)は、中国・唐の強大化で激動する朝鮮半島情勢に、百済一辺倒外交を展開し外交・軍事両面で敗れた。
その結果、防衛の必要から近江遷都を余儀なくされた。
天武が都を大和の地に戻すことができたのは、百済一辺倒だった天智外交の刷新があったればこそだ。
唐との連携で百済、高句麗を滅ぼし朝鮮半島を統一した新羅(しらぎ)は、やがて唐と対立するようになる。
『日本書紀』の天武時代の記述をみれば、唐、新羅の外交団が引きも切らずに日本を訪れ日本の使者も送られている。唐と新羅がそれぞれの思惑で日本を味方に引き込もうとする外交戦が始まる。
天武は、いずれ一方に寄ることなくバランス外交を展開。二度と朝鮮半島に兵を出すこともなかった。そして内政の充実に専念する。
唐、新羅にならって官僚制度を充実させ、律令(法制度)支配による中央集権を強化する。明治維新後の大久保利通の戦略も同じだ。
「天皇」の称号も、「日本」という国名も天武から始まる。壬申の乱という大内乱が国を開いた。
「国を立てる」。国際情勢を踏まえた広い目と強い思いがなければ、乱も成就しなかった。
組織生活の中では誰も覚えがあるが、身に及ぶ危機は常に隣り合わせだ。私怨、権力闘争の衣をまとった危機の本質を、国家、社会、企業の危機と受け止める度量と先見性があるかどうかが、謀反と革新の道をわける。古代最大の内乱にそれを学ぶ。