慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原の決戦で東軍を率いる徳川家康が石田三成の西軍を破り、天下の実権を握った。勝因は、西軍から東軍に寝返った小早川秀秋の背信だったとされる。それが小説、ドラマになる。
しかし実際には、西軍総大将の毛利輝元の軍勢が動かなかったことが徳川の勝利を呼び込んだ。
なぜ毛利は動かなかったのか。毛利分家筋の吉川広家(きっかわ・ひろいえ)の政治工作があった。
中国地方の雄藩である毛利本家の輝元は、石田三成に担がれて総大将となり、三成挙兵後早々と大坂城に入ったが、当初から広家は、旗幟(きし)を鮮明にすることに反対していた。
輝元と広家の祖父、毛利元就(もうり・もとなり)は、中央政治に深く関与することを戒めていた。天下の行方を見定めてまずは中国地方の覇者として実力を蓄えることを言い遺して世を去った。動乱の時代にあって、まず「御家大事」の行動規範を示していたのだ。
朝鮮の役で出陣し野戦で活躍した広家の武将としての勘が、家康有利を見抜いていた。その上で毛利家存続の最善の策を考えていた。
決戦を前に、広家は、美濃赤坂にある家康の本陣に密かに使者を立てた。
「毛利本家の総大将就任は行きがかり上のこと。内府殿(家康)にたてつく積りはいささかもございません」
戦いの前日14日の午後には、徳川方から、「毛利家の所領安堵」の知らせが届いていた。「御家大事」を第一にして敵方と内通し、毛利家存続の約束を取り付けたのだ。
広家は、決戦場の東部の南宮山の北麓に陣を構えた。背後の南宮山には、総大将輝元の養子、秀元が1万5千の大軍が控えているが、戦場へ駆け下る道を塞ぐように先陣広家の軍3000がいる。
午前8時、戦いの火蓋が切って落とされる。
数キロ西の前線では、一進一退の攻防が続く。三成の本陣からは、「毛利勢は、南宮山を降りて家康本陣の背後を襲え」と矢の催促が届く。秀元軍も出陣をせっつくが、広家は悠然と構える。「霧が深い、戦機にあらず」「まずは腹ごしらえだ」。
やがて、小早川秀秋が東軍に寝返り、西軍は総崩れとなる。三成は戦場から逃走し、決着がついた。
歴史的な戦いで西軍総大将を引き受けた毛利勢は一戦も交えず一兵も失うことなく、静かに戦場を離れた。
広家の読み通り、家康が勝った。リーダーの判断の誤りを修正して毛利家を救ったナンバー2の決断。しかし、家康はそれほど甘い男ではなかった。権力欲が強く、細心で執念深いのである。(この項、次回に続く)