組織のトップリーダーというものは、存外に孤独なものである。その強力な立場から組織内外のことを何でも知っていると思われがちだが、さほどでもない。
必要な情報を下に一々尋ねなければわからぬようでは指揮はとれない。聞かずとも正確な情報が自発的に迅速に上がってくるシステムが不可欠だ。それが難しい。官でも民でも違いはない。
中曽根康弘内閣で官房長官を務めた後藤田正晴が官邸の情報掌握能力の強化に取り組んだのは、当時、あまりにそのことに無頓着だったからだ。
1983年(昭和58年)9月1日午前3時10分、ニューヨークから韓國ソウルに向かっていた大韓航空機が航路外のサハリン上空を飛行中に突然、姿を消した。日本人乗客28人も搭乗していた。
しかし、この日、後藤田に内閣調査室から情報が上がってきたのは、午前8時のことだった。この間、防衛庁からは何の情報もなかった。素早く動くべき外務省は全く知らないと言う。
防衛庁、外務省はともに情報組織を持っていたが、犬猿の仲であった。「こんなことで危機対処ができるか」と後藤田は愕然とした。
さらに、日米の共同歩調でのソ連の責任追及を目指した後藤田は、米国側からの、「防衛庁が入手している通信傍受データを公開して欲しい」と言う要求にショックを受けた。
ソ連軍機が地上の司令部との間で交わした「撃墜せよ」「目標をロックオンした」「ミサイル発射」という通信を傍受した事実と音源は、官邸がその存在を知らぬうちに、米国に渡っていたのだ。
「いったい、お前たちはどこの国の組織だ!」。後藤田のカミナリが防衛庁に落ちた。
情報を入手した後藤田―中曽根ラインの決断は速かった。「機密情報である」として抵抗する防衛庁を押し切って、音源を公開した。わが国の傍受技術をソ連に知らせる危険な賭けだったが、これによってソ連も撃墜の事実を認めざるを得なかった。
トップの孤独について、後藤田は5年後に発刊した回顧録の中で、こう指摘する。
「総理大臣のところに入る情報というのは、本人がよほど注意していないと、〝甘い〟ものばかりになってしまう。総理自身が嫌がると見られる情報はまず入らないし、一つ判断を誤ったら大変な問題になる時には、誰も絶対に自分の考えは一言も言ってくれないのである」