人は生卵を溶きほぐす目的のためだけに、4290円を投じるのか。
いや、それが、4290円を投じる人がいるという話なんですね。東京・荒川区の町工場、トネ製作所が昨年発売した、自社ブランド製品第一号の「ときここち」が今回のテーマです。で、その用途は生卵を溶くくらい。
でも、発売直後に都内の百貨店での催事に出店したところ、わずか6日間で315本も売れたというスタートダッシュ。そしてじわじわと販売数を伸ばしています。
どうして、また?
上の画像をご覧ください。ボールに割り入れた生卵に「ときここち」を突っ込んで、20秒ほど撹拌した結果がこれです。卵白が見事なまでに卵黄と混ざり切りました。
それがどうした、と思う読者の方もいらっしゃるかもしれませんね。でも、卵白を毛嫌いする人って意外や少なくないらしい。この商品特性、ピンとくる層にはまたたく間に理解できるようです。
トネ製作所社長の奥様がまさにそうなのだと聞きました。卵焼きに白身部分が少しでも残っていたら、もう箸をつけないらしい。それで社長は、自社ブランド製品を開発する最初の取り組みとして、卵を完璧に溶きほぐせるキッチン小物づくりに臨んだのですね。
そんな安直な? いえ、私にはそうは思えませんでした。商品開発で大事なのは「どんなあなたに購入してもらいたいか」を具体的に想起すること。その意味では「あなた」を奥様に据えた社長の判断は、理にかなっているといえます。
これが本体の全貌です。長さ15センチ弱で、触ってみるとただちにわかるんですが、これ、ステンレスの一枚板からの成型なんです。溶接加工していない。社長に言わせると、「そのほうが経年劣化に強いから、長く使える」とのこと。いや、綺麗な形をしています。
創業58年の同社はもともと、精密板金加工を得意領域としている町工場です。例えば、北陸新幹線の車両の扉を吊っている金具、あるいは駅のホームにある防護柵の機構部分などを手がけてきました。社長は笑います。「要するに、うちの製品は『見えないところについている』」。
それが初めて自社ブランドに挑んだのは、「どんな時代の波に襲われても、その存在が会社にとって、心の支えになるから」といいます。たとえ売り上げ比率は小さくとも、自社ブランドの存在は大きいものとなるということですね。
どうして卵白がきれいに混ざるのか。「ときここち」は生卵に対していったい何をなしているのか。
「先端にある、コンマ7ミリの円状の線部分で、卵白を切っているんですよ」
なるほど……。箸で混ぜても、泡立て器を使っても、つるんとした卵白が器の中で逃げ回ってしまって、うまく混ざらないものですが、この「ときここち」は卵白をしっかりとつかまえて、そして切っているというわけでしたか。
社長に聞くと、こうして「卵白を切ることで、ちゃんと溶きほぐす」という解決法そのものは、最初の試作品を完成させた段階で発見できていたそうです。
問題はここからでした。上の画像は、試作品の数々です。いちばん左が試作1号で、そこから右にいくにつれて、2号、3号、4号。で、いちばん右が師範となった「ときここち」完成版です。
「試作品を妻に見せるたびに“瞬殺”だったんですよ」と社長は振り返ります。
試作2号は「手が痛い」、3号は「卵と指の位置が近すぎる」、4号は「上にある4つの穴にどんな意味があるのか」と……。
卵白を切る原理を見つけながら、そこから商品版を完成させるまで1年はかかったそうです。最後のを奥様に見せたとき「ようやく、にっこりと微笑んでくれました」。
「どんなあなた」に手渡したい商品かの見据え方がぶれなかったからこそおんスマッシュヒット商品だったのですね。
そしていつも申し上げていることですが……中小企業初の商品って、必ずしも万人向けである必要はない。狙った「あなた」に照準を合わせることで、商品特性は先鋭化し、それによって、きちんと伝わりやすい存在になる。そして販売数が何十万、何百万とまでいかなくとも、社業に相応以上の効果をもたらしてくれる可能性がある。そういう話であるのだと思います。