徳川美術館(名古屋市)に若き徳川家康の異様な肖像画がある。
やせこけて目を見開き所在なげに頬杖をついている武将姿の絵だ。
1572年12月、武田信玄に完敗を喫した三方ケ原の合戦直後に家康自らが描かせたものだと伝えられている。当時31歳。
やがて織田信長、豊臣秀吉の世が去り、関ヶ原の戦いに勝って天下を取り、知略で豊臣一族を滅ぼす。
慎重かつ狡猾な「狸おやじ」のイメージがあるが、若き日に血気にはやって屈辱を味わったのが三方ケ原(みかたがはら)の合戦だった。
今回は、若いうちの屈辱をのちに活かすかどうかという話である。
当時、家康は天下取りに近づいた尾張・美濃の信長と同盟を結び、浜松城にあった。
そこへ信玄が反信長包囲網の盟主として甲斐を発ち上洛に動いたとの知らせが入る。
武田の精鋭2万5千が三方向から徳川領の三河・遠州に殺到する。
家康の手勢は8千。信長の援軍3千を含めても1万1千の劣勢だ。
「浜松城は堅固。籠城が得策かと存じます」と側近たちは自重を促す。常識的な判断だ。
信長からも「打って出るな」との司令が届いている。やがて、尾張か美濃で信長軍は武田軍を迎え撃つことになる。
その時に家康を背後から出撃させればいいとの思惑があった。
信玄も、家康に立て籠られて攻城に時間はかけたくない。家康を城から引き出し一気に叩きたい。
浜松城に近づいた武田軍は踵を返して北の三方ケ原(みかたがはら)から西へと軍を向け、家康をおびき出すかのように素通りの姿勢を見せる。
「おのれ」と家康は逆上した。
12年前の桶狭間の合戦。家康は敗れた今川義元の下で従軍し信長の奇跡の勝利を目にしている。
「あの時、信長は十倍の勢の今川軍の上洛を前に籠城策を捨てて清洲城から出撃、義元の首を取ったではないか」。
29歳の信長を一躍戦国の雄に押し上げた勇断に自分を重ね合わせたに違いない。「目にもの見せてくれる」。
「出陣じゃ、出陣じゃ」。
家康は全勢力を率いて城を後にし、信玄の後を追った。三方ケ原の高みから道は西に狭い下り坂となる。
隘路に義元を奇襲し成功した信長の用兵が頭をよぎる。
「下り坂で背後から襲えば勝てる」。
折しも雪が降り始めた。「おお吉兆か。桶狭間でのあの日も降り始めた暴風雨をついて信長は奇襲を成功させたぞ」
「やはり若造、出て来おったか」。若気とはこういうものよ。百戦錬磨の猛将、52歳の信玄は若い家康の心理を読み切っていた。
武田勢は三方ケ原(みかたがはら)から下らず、その高みに万全の体勢で布陣していた。 (この項、次週に続く)
※参考文献