天皇・天智は息子の大友を後継に指名して世を去った。
「いま立ち上がらねば野たれ死にだ」。大友にとって即位の邪魔者となった叔父の大海人(おおあま)は吉野の山里にこもって焦る。
相手は絶大な権限と軍を持つ近江朝廷、自らには兵もいない。
吉野に下った大海人(おおあま)に付き従った側近はわずか10人にすぎない。
当面の身を守るのは、身をやつした出家の立場のみ。それとても兄・天智の大喪作業がすめば、その子、大友が公式に皇位に就き軍を差し向けるだろう。
それから決起したのでは皇位簒奪、反逆の汚名を着ることになる。
決起のタイミングがかぎを握っていた。大海人の情報収集が始まる。
畿内の大豪族は朝廷方についたが、不満をかこつ地方豪族はどうか。
大海人の直領地として密接なつながりのある美濃の安八磨(あはつま)郡からは秘かに兵供出の約束も取り付けた。
天智崩御から半年後。その美濃から、「朝廷が天智陵造成のための労役を募集している」との情報が届いた。当時、労役は軍役に等しい。
近江と吉野の間の宇治川で、朝廷が吉野への食糧運送の荷を止めているとの通報も。しびれを切らした大友が動き出したのはまちがいない。
「いかに黙して身を亡ぼさむや(このまま黙って滅ぼされてたまるか)」と、この時、大海人は決断の一声を上げたと日本書紀は伝えている。
大海人は、馬の手当も待たず吉野を脱出した。付き従うのは妃(後の持統天皇)、皇子・草壁のほか、男女30人に過ぎなかった。
この稿で何度も強調してきたが、危機脱出の成否を握るのは、的確な情報に基づく情勢判断と迅速な行動、そして明確な目標にある。
「甥とはいえど大友を討つ」と目標を定めた大海人の決断と行動は速かった。
吉野から宇陀へ山道を抜け、そこで伊勢から飛鳥へと荷を運ぶ馬50頭と出会う幸運も呼び込んで、この馬に乗る。
猟師の先導で名張、伊賀へと間道を松明を掲げて徹夜で駈け抜けた。
地図でその行程をたどってみると、約100キロを15時間で走り切っている。
孫子の兵法が説く「疾(と)きこと風の如し」。
672年6月24日のことである。 (この項、次週に続く)