「うちのような小さな会社には、器量のある人はいない」「今の世の中に人材はいない、世も末だ」。どこの組織からもそんな嘆き節が聞こえてくる。
そうしたあきらめに対して、「果たしてそうか?」と荻生徂徠は喝(かつ)を入れる。
組織経営者として、側近である重役に器量ある人材がいないとなれば、「下々の者を取り立てればよい」と彼は言う。
「太平の世がつづくと、能力のある人は下にいて、地位が固定した上層の身分の人は愚かになってゆく」と天下一の儒者である徂徠は指摘している。
創業の時代、わずかばかりの同志たちと会社を立ち上げて勝負を挑んだころを懐かしんでばかりでは、世の動きについていけない。「今の“新人類”は度し難い」と、時代を恨んでいても解決策はない。
漢籍に通じた徂徠は言う。「滅びた王朝には器量のある人がひとりもいなかったかのようだ。しかしその王朝を亡ぼして新たに天下を取った側の個々の人間も旧王朝の時代に生きていた人々である」と徂徠は人材面から歴史を読み解こうとする。
「旧時代に才能・器量を見抜けず活用されなかった人材の器量を認めて登用したからこそ、新王朝は天下を取ることができた」
前にも触れたように、三国時代の魏の曹操は、身分の上下を問わず、才能だけに着目して人材を集めた。
それでは、どうやってその人材の器量・才能を見極めればよいか。
徂徠は、「人を使ってみてその才をはかれ」とアドバイスする。そこまでは当たり前だが、彼は一つの重要な忠告を付け加えている。
「人を使ってみて、その器量を見分けるのには、上に立つ者が自分の好みにより、こうせよ、ああせよと指図するようなことはせず、その人の考えに任せて、思うままにやらせてみることが必要である」と。
愚鈍な上司ほど、指図して人を使うことを好み、指図によく従うものを「自分と心が通じる」として寵愛する。
「そのような人の使い方をして、“この男は職務をよく取りさばく”と思っていたのでは、人の器量を使ったことにはならない。ただ自分の一身をいくつにも分けて、自分の知恵を使っているまでのことにすぎない」
主君の分身として働くような人は、ただ自分を押し殺しているだけであって、「おもねり、へつらいを旨とし、身を打ち込んで仕事をしようとしない、大悪人である」。
徂徠流で人の才を見抜くのも、なかなかの真剣勝負である。