前編では、ニューヨーカーがコーヒーから抹茶へとシフトした機能的な理由を数字とともに見てきた。カフェインクラッシュへの不満、L-テアニンがもたらす穏やかな集中力、そして2,200億円規模にまで成長した市場の現実。しかしこれだけでは、なぜ抹茶がこれほど人々の日常に深く根づいたのかを、完全には説明できない。
もう一つの理由が、あの「グリーン」という色だ。
ニューヨーカーの疲労度と、抹茶グリーンが語る癒しの色彩心理
コーヒーの濃い茶色、カフェラテやカフェオレの薄茶色と違う、深緑からミルクを混ぜた時のミルキートーンの落ち着いたグリーン。これが、人に何を感じさせているのか。
スタンダードな抹茶ラテ
ストロベリーミルク抹茶に桜のコールドフォームのせ
抹茶Yuzuソーダ
色彩心理学の観点から言えば、茶色は「大地」や「土」を想起させ、本能的な安定感や信頼感を与える色だ。コーヒーのあの濃い茶色は、そういう意味で長年、人々に「どっしりとした安定」を届けてきた。しかしそれは同時に、変化のなさでもあり、重苦しさにもつながりかねない。毎日同じ茶色を手に走り続けるうちに、心と体が少しずつ、沈んできたのかもしれない。
そこに現れた抹茶の緑は、人間の目が最もストレスなく処理できる色であり、副交感神経に働きかけて心拍数を下げ、心のバランスをフラットに戻す色だ。水と植物のある癒しの場所を連想する、本能レベルの「回復の色」と言える。コーヒーの茶色が「今の状態を維持する安定」なら、抹茶の緑は「疲れた状態から元に戻る再生」を感じさせる。
ニューヨーカーは、疲れすぎていた。そして、ずっと癒しを求めているのだろう。コーヒーとは違う抹茶のカフェインの機能だけでなく、あの抹茶グリーンが、すでに疲れ果てた体と心に「救われる」感覚を与えているとしたら、抹茶人気は不思議ではない。
地元の人が気軽に立ち寄るカフェから、こだわりのコーヒーを提供するコーヒー専門店まで、どこに行っても抹茶がある。抹茶と言っても基本は「抹茶ラテ」だが、抹茶を使ったクリエイティブなドリンクの数々に驚かされる。そして、抹茶ドリンク専門店も珍しくない。

抹茶ドリンクのチェーン店「CHA CHA MATCHA」


本格的な抹茶を提供するカフェ「Sorate」
日本では、なぜここまで広まらないのか
一方で、日本ではこれほど抹茶が一般的な日常生活の中に存在していないだろう。抹茶味のお菓子はコンビニで買える気軽なものから高級品まで沢山あるが、抹茶ドリンクがこのように飲まれているかというと、違うはずだ。
それは、日本には「茶道」があり、それに触れたことのある人たちが多くいて、茶道に対する尊重があり、無碍に扱ってはいけない感じがしているためだろう。「抹茶はきちんと立てていただくもの」、その呪縛が扱いに制限をかけてしまっている。
ニューヨークをはじめ、その呪縛のない場所では、一つの素材としてアイディアのままに、自由なチャレンジがなされる。抹茶がパウダー状の素材であったことも、使われやすかった要因だろう。茶葉ではこうはならなかった。
「こだわり」と「呪縛」は、違う
この現象が経営者に突きつけているのは「何が売れるか」という話だけではない。
ニューヨークのコーヒー店が、抹茶という「外来の文化」を自らの店のブランド文脈に取り込みながら、現場のオペレーションと格闘している姿は、規模を問わず、すべての経営者に向けた問いかけに見える。
ニューヨークにおける抹茶の広まりと、一般への浸透具合を見るにつけ、「こだわり」と「呪縛」は違うとつくづく思う。そしてそれは、抹茶に限ったことではない。
ビジネスを行っていく上で大事なのは、客観的視点、さらに言えば「自分が今いる場所の外の世界からの視点」だ。
非常識になれと言っているのではない。自分で気づかないくらいに当たり前になっていることが、アイディアを狭めていることがあるという話だ。そしてその気づかない当たり前こそが、足枷であり呪縛になっている。抹茶に限らず、特に日本の伝統文化や技術を元にした商品やサービスを海外に展開したいと思っている企業やブランドには、是非とも今持っているマインドを一旦手放して、ただ傍観してみることを試みてほしい。そこに何が見えてくるか、ただただ単純に試してみてほしいのだ。
コーヒーの街が抹茶を選び、うまく自分たち仕様にしていっている現実を目の当たりにして、その問いは皆さんにも届いているはずだ。




























