【意味】
何事も、初めは容易であるが、終わりを全うすることは難しい。
【解説】
「貞観政要」からの言葉です。
「初志貫徹」といますが、その貫徹が難しい。初志は外からの刺激で比較的簡単に起こすことができますが、貫徹は自らの内に秘めたる強い意志を持続することによって初めて達成できるからです。
昔の流行歌『籠の鳥』に「逢いたさ 見たさに 怖さを忘れ 暗い夜道をただ一人。逢いに来たのに なぜ出て逢わぬ・・・。共に恋した二人が仲も 今じゃ逢うさえままならぬ」とあります。
天地自然の万物万象は、諸行無常の摂理に従って変化しますから、自然界の一微粒子である人間の心も変化します。固く誓った男女の恋仲も、放っておけば隙間風が吹くことになります。
お釈迦様は「心は壊れ易きもの」と説きます。単純に理解すれば、人間の心は意志薄弱で継続力のない欠陥だらけのものとなります。しかし仏の道を説く天下の聖人が、一方的に信者を突き放し、自信を失わせるようなことを言われるはずはありません。
ではどのように理解するか、少し柔軟に考えてみましょう。「確かに自分の心を壊したのは自分であるが、壊れる前の当初の心を創ったのも、また自分である」と気付けば、「壊れた数以上の新しい心を生み出すのも自分自身」となります。お釈迦様の言葉の裏には、「人間の心は、何度も再生できる素晴らしいもの」という教えが隠されているのです。
志とは「継続して目標に向かう力」です。現代では「自分は継続力のない人間だ」と自己卑下し、自信喪失気味の人が増えています。
しかし諸行無常の天地自然の中をその一微粒子として生きる人間が、変化法則の影響を受けて継続力を失うことは自然の現象です。そのことをわざわざ悩み自己卑下するよりも、「無常とは常無しの意味で、今が無くなれば次が生まれること」ですから、この力強い再生生命力が自分の中に宿っていることに着目したいものです。
かつて恋多き女優さんが、「私は人生の舞台でも女優よ。失恋は過去の舞台、新しい恋は私の次なる舞台なのよ」と豪語していました。木々も秋に葉を落とし翌年の春に新芽をつけるから新鮮です。女優さんも次なる恋に挑むから、若々しさを保っていられるのです。
道元禅師は「発心(初心)を百千万も起こすべきなり」と言います。ヤル気の持続方法を説いたもので、しぼんだ風船のような心に繰り返しヤル気を吹き込むという簡単な方法です。百千万発のヤル気を絶えず吹き込んでいれば、やる気は確実に持続するというのです。
私どもの学園のトライアングル教育というプログラムにも「百回口述歩行法」というのがあります。朝の登校の際に「○○試験に合格するぞ!」と自分の歩調に合わせて念じる方法です。あくびをしながら嫌々学校へ向かう者と、「目標試験に受かるぞ!」と自分に言い聞かせて登校する者と、どちらが授業に集中できるかは歴然です。
「歩くたび 再び起こせ 我が初心 歩みの先に やる気漂う」(巌海)