【意味】
立派な人物であるかどうかは、最初に会ったときの面相で判断してほぼ間違いな い。
【解説】
三十数年前に大森曹玄老師の写真を初めてみましたが、剣道・禅道・書道で鍛えられた素晴らしい顔相でした。
最近はインターネットの普及によって、偉人・賢人の肖像を簡単に見られるようになりましたが、
皆それぞれに立派な顔相をしています。
過日旅行したローマの街角で、右腕の無い50歳前後の乞食の人に会いました。
通常の乞食は目抜き通りの目立つ場所で少しでもたくさんの慈悲を受けようとしますが、
この人は少し遠慮がちの場所に座っていました。
最初は通り過ぎたのでしたが、気になりましたので戻って小銭を出しました。
するとその乞食の人は、すっと立ち上がり「ボンジョルノ!」と・・・。
その笑顔や挨拶の中にある種の謙虚さと品位が感じられました。
これだけの人が路上に座るには、よくよくの事情があったのでしょうが、印象深い旅の思い出になりました。
流石に天下のローマ帝国のお膝元です。2000年の後の乞食の人までが立派でした。
20代までは親からもらった顔相です。これを『基礎顔相』といいます。
30代からは自分で積み重ねた人生がその顔に反映されます。これを『修行顔相』といいます。
長年連れ添った仲のいい夫婦は、血縁があるかのように似通った顔相になりますし、
野球選手がユニフォームを脱いで2~3年すると勝負師の顔から柔和な顔相に変わります。
これらは、日々の生活姿勢に応じた顔相が作り出されるという例です。
自分のことで恐縮ですが、私は生まれつき頭が極端に大きく、決して美男子といえる部類ではありません。
それですから若い時の悲惨な恋愛秘話を数々持っています。
しかしそんな私でも人間学や坐禅を30年もやって還暦を過ぎる年になりますと、
鏡に映った自分の顔に惚れ惚れするようなことが度々あります。
他人様と比較をすれば相変わらずの醜男でしょうが、自分だけの世界では
徐々に美男に向けて変身中というゆるぎない自信があります。
先日も鏡を見ながらこの心境になりましたので、ニコニコしながら家内に話しました。
すると真顔で「お父さん、ボツボツ痴呆が始まってきたのでは・・』と心配されました。
論語にも「顔色正して、ここに信に近付く」とあります。
礼節に従い顔の表情を正していると、人々から自然に信頼を受けるという意味です。
かつてリンカーン大統領が友人の推薦する男の顔を嫌ったと言われていますが、
ある程度の年齢になったら「自分の顔に責任」を持ちたいものです。