勝海舟を感嘆させた「胆力」
歴史において傑物と言われる者に二つの典型がある。古代中国で秦末の混乱期に天下の覇を競った項羽と劉邦を比べてみるとよい。才気煥発の項羽は武勇に優れていたが何事も人に任せられず自ら処理し指示する。対する劉邦は茫洋として掴みどころがなく、万事において大まかなタイプで戦いを指揮する才にも乏しいが、一つ大きく傑出した長所があった。自分に足りないところを有能な部下に任せる器の大きさだった。天下の有能な人士、民衆はこぞって劉邦に惹きつけられ、劉邦は軍事に優れた項羽を破り漢王朝を開く。
わが国の明治維新期、数々の英傑が登場したが、幕府官吏として徳川の世に幕を引くことになる勝海舟は、政治交渉で付き合った人物たちの中で、劉邦にどこか通じる薩摩の西郷隆盛の人間力の大きさを高く評価している。
勝の回想録である『氷川清話』は人物評論の冒頭で西郷について、「どの位太っ腹の人だったかわからないヨ」と語っている。江戸城無血開城の時の勝と西郷の談判における有名なエピソードだ。鳥羽伏見の戦いで幕府軍を破った官軍は二手に分かれて江戸城に迫る。幕府代表として江戸百万の市民をなんとか戦火から守ろうと田町の薩摩蔵屋敷に乗り込んだ勝は、交渉が決裂すれば、一戦を交えて江戸城下を焼き払う覚悟を秘めていた。
「この時、おれがことに感心したのは、西郷がおれに対して、幕府の重臣たるだけの敬礼を失わず、談判の時にも、始終座を正して手を膝の上に載せ、少しも戦勝の威光でもって、敗軍の将を軽蔑するというような風が見えなかった事だ」
そして、西郷は勝が提案する無血開城の条件を静かに聞き、「いろいろむつかしい議論もありましょうが、私が一身にかけてお引き受けします」とただひと言だった。西郷は、官軍が武力を使わぬなら抵抗はしないという勝の約束の細部をあれこれと詮索することもなく、江戸城を取り囲んだ新政府軍の兵を引かせた。
勝は西郷に比類ない「胆力」と「至誠」を見た。すっかり圧倒された勝は、小細工は無用と、「至誠には至誠で」、西郷を信じることにしたという。
委細は任せて責任は負う
その後、江戸城内で行われた城明け渡しの儀礼には、双方から五人の委員が出席した。全員がかちこちに緊張する中で、悠然と現れた西郷は、式典が始まるや、ふらりふらりと巨体を揺らして居眠りを始める。受け渡し式が終わっても座ったまま居眠り続ける。
「西郷さん、西郷さん、式は終わり、みなさんお帰りで御座る」と幕府側代表委員の大久保一翁が揺り起こすと、寝惚け顔を撫でつけてふうらりと巨魁は去った。「なかなかに太いやつだ」。感心した一翁は、その模様を勝に伝えた。天下の一大事に臨んで、なんとも茫洋としていながら、人を惹きつけてやまない人間力を垣間見せている。
政権の移行はヤマ場を越えたとはいえ、官軍が溢れる江戸はまさに無政府状態で治安維持が大きな課題となっていた。ところが西郷は、市中の取り締まりの役目を、倒れたばかりの幕府の旧官吏である勝に丸投げして、東北諸藩の平定に向け江戸を去った。「どうか、よろしくお願い申します。後の処置は勝さんが何とかなさるだろう」と言い残して。
このことについて、「何とかなるだろうとは、あまりにも漠然としている」と勝は呆れて回想している。この漠然さこそ西郷が人を惹きつける不思議な魅力の秘密でもある。西郷の心を翻訳してみるとこうなる。
〈江戸開城の談判では、肝胆相照らした仲じゃないか。全面的に信頼しているから、勝さん、あんたに委細は任せる。なあに、問題が生じれば、責任は私が全部負いますよ〉
ここまで信頼されては逃げるわけにいかない。「一肌脱ごうじゃないか」となるのが人間というもの。その感覚を西郷は天性のものとして身につけている。
龍馬も虜(とりこ)になった「漠然さ」の魅力
この「漠然さ」の魅力について、勝はこんな人物比較を言い残している。西郷と同郷で、ともに倒幕に邁進した緻密な性格の大久保利通ならどうしたかだ。
「もし大久保なら、これはこう、あれはこうとそれぞれ談判(打ち合わせ)しておくだろうに。しかし考えてみると、西郷と大久保の優劣は、ここにあるのだヨ。西郷の天分が極めて高い所以(ゆえん)は、実にここにあるのだヨ。西郷は、どうも人にわからないところがあったヨ。大きな人間ほどそんなもので・・・小さい奴なら、どんなにしたってすぐ腹の底まで見えてしまうが、大きい奴になるとそうでもないノー」
一時、勝に私淑していた坂本龍馬が、勝があまりに西郷の人物をほめるので確かめようと、勝の紹介状を携えて西郷に会いに行ったことがある。龍馬が薩摩から戻って勝に言う。
「なるほど、西郷という奴は、わからぬ奴だ。少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろう」
龍馬も西郷の漠然さの虜となった。その龍馬が命を賭して犬猿の仲だった薩摩と長州の間を奔走し両藩の倒幕同盟を取り持つ。そこからこの国は近代へ向けて大きく舵を切ることになる。一人の巨大な人間力が国を動かしたのだ。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『氷川清話』勝海舟談 江藤淳、松浦玲編 講談社学術文庫