【意味】
隋の二代目煬帝は、武力不足により滅亡したのではない。
【解説】
「貞観政要」からの言葉ですが、この後に隋の滅亡理由が具体的に述べられます。
『正に仁義修めずして、群下怨み叛くに由るが故なり』。仁愛正義の心を疎かにし、民衆からの恨みにより亡びたのです・・・と続きます。
臣下の房玄齢(ボウゲンレイ)が、隋代と比べて武器不足を理由に唐国の国防予算を増額するよう申し出た際の、帝太宗の返事です。名臣玄齢といえども、名君太宗の洞察力には歯は立たなかったようであります。
隋王朝(581~618)は、3代37年間の短期間で亡び、その後の唐王朝(618~907)は289年の歴史を誇ります。これは紀元前221年成立の秦王朝16年と、その後の漢王朝405年との関係に似ていますが、どちらも前王朝の政治体制の大半を継承しながら、崩壊の原因となった圧政部分を排除し、見事に長期王朝の維持を成し遂げています。
隋の初代皇帝の文帝は、前王朝の静帝より禅譲を受け隋王朝を起こし、当時群雄割拠の南北朝時代に終止符を打ちます。また内政にも力を注ぎ、貨幣を統一、科挙制度の創設等中央集権体制を盤石なものとし、仏教の交流にも力を注ぐなど、中国史上でも名君の一人に数えられる人物でした。
ところが二男の楊広は、質素を好む父の文帝、貞操を重視する母の独孤皇后の眼を欺き、長子の楊勇を排除、文帝の死後二代目皇帝煬帝(ヨウダイ)として即位しました。即位後の煬帝は継承権のある弟たちを殺害する一方、派手好みで王宮や運河などの大土木事業にも力を入れ、高句麗との戦争に三度も失敗します。
煬帝の"煬"の字は「天に逆らい、民を虐げる」という意味です。これは次の唐王朝の初代皇帝の李淵が皮肉ってつけたものですが、煬帝の度重なる圧政に耐えかねた民衆が各地で反乱をおこし、最後は自分の近衛軍によって殺害されています。
遡ること800年前、戦国時代の思想家韓非子は、「餓えは兵を招き、病は兵を招き、労は兵を招き、乱は兵を招く」といい、国民の疲弊は戦争を招くと警告しています。この思想観は当然隋王朝にも伝わっていたと思いますが、「名句名言は、驕れるものには沿わず」(巌海)とあるように、派手好みの煬帝の耳には、韓非子の警告も活かされなかったようです。
少々遅きに期した嫌いはありますが、現代日本も隋の時代と似ている処があります。戦後60余年、個人経済や企業経営において、日本国民は質素倹約や技術革新の努力を続けて豊かになりましたが、国家経済では憲法の個人権利主義や万民平等主義が進み過ぎて「国へのたかり国民」を増やし過ぎた面があります。
100年後の日本の歴史書に「日本は、税収入不足や国債の過剰発行により破綻したのではない。個人権利や万民平等によりたかり国民の増加させたことが原因」と記載されそうです。
国家の主権である国民が「たかり根性」を身に付けてしまっては、獅子身中の虫となってしまいます。国民の大半が身中の虫では、劇薬による内科療法で駆除するにしても、外科手術により切除するにしても、かなりの激痛が伴う覚悟が必要となります。