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人間学・古典

第1人目 「孫子」

渡部昇一の「日本の指導者たち」

 シナ大陸で出た本のうち、ヨーロッパで最も重んじられたものは何か、と言えば『孫子』であろう。儒教あるいは儒学が重んじられた文化圏では当然『論語』などの四書五経が影響力を持ったが、儒学はキリスト教文化圏ではあまり意味がない。シナ文化やシナ文学を専門とする人たち以外にはほとんど関係がない。
 ところが『孫子』とは違うのである。軍事の関係者が注目し、尊敬してきているのだ。そしてヨーロッパで軍事学の知識は高級インテリにとっては必修のものとされている。
 まだベルリンの壁が崩壊しない頃、日本を訪問した西ドイツの首相B氏が、日本の首相F氏に、「西ドイツの現在の最大の関心事はソ連の中距離ミサイルである」と言って、その話をしたが、日本の首相は、そのミサイルの名前も性能も、またそれに対抗するためのNATO側のミサイルの名前も性能も全く知らなかったので、西ドイツの首相の方が驚いたという。
 ヨーロッパでは似たような国力の国々が戦争し続けてきたから、軍事に無関心では、政治家にはなれないし、経済界でもリーダーになれなかったのである。そういう風土の中ではすぐれた軍事の本ならどこの国のものでも読まれるし評価もされる。それで『孫子』は最も広く国際的に評価されてきたシナの本ということになるのである。『孫子』はリーダーを志す人の必読の書としての評価が国際的に確立しているのだ。
 孫子が誰かということについては学者の間で議論があるが、われわれが『孫子』として知っている内容は、かの『三国志』の英雄である曹操(魏の武帝という)が注釈した『魏武注孫子』という本から出ていると知っておけば十分であろう。
 日本が大日本帝国として世界に威張っていた時代と、大東亜戦争とその敗戦を体験的に知っている私から見て、最も痛切な文句を二つばかり『孫子』からあげてみよう。
 まず書き出しの部分にある文句である。「戦争は国の大事であって、死ぬか生きるか、国が存続するか滅亡するかの別れ道になることであるから十分に考えなければならない。」
 第二には「従って〔戦争にはもの凄く金や物や人が消耗されるので〕戦いは荒っぽくてもとにかく早くやるのがよいのだ。うまく長く戦うというようなことは、いまだかつてないのである。」
 日本がアメリカやイギリスと戦う羽目になったのは、昭和十五年にヒトラーのドイツとムッソリーニのイタリアと三国軍事同盟を結んだからである。当時はドイツもイタリアもバリバリの社会主義国である。日本とは貿易関係もたいしてない。そんな国々と同盟して石油を売ってくれるアメリカと敵対するのは正気のさたではなかった。
 特にナチスのユダヤ人迫害を知っていたらその世界的影響も考えるべきだった。一番重要なことは、「負けない側」につくことなのだ。その点だけでも当時の日本のリーダーたちがよく考えたらよかったのに、その一番肝腎なことを考え抜いていなかったのである。それで日本は敗れた。
 次ぎに、戦争の準備は十分やるが、やったらすぐ終えなければならないということである。日清戦争も日露戦争も、日本は軍事的にも外交的にも十分に準備した上で、いずれも二年もかけずに終了している。
 満州事変も十分準備した約一万の日本軍が、四十倍の四十万の張学良のシナ兵を追い払って、一挙に満州国独立まで持って行った。
 ところが昭和十二年以後のシナ事変(日中戦争という人もある)では、日本は全く準備していない時に戦争をしかけられた。あわてて兵力の逐次投入を続け、北京、上海、南京、武漢三鎮と占領しながらも戦いは終わらず、国際情勢がどんどんけわしくなって、ついに英米とも戦うようになったのである。
 孫子は教えるのだ。リーダーにとって一番重要なことは、常に敗けないようにすること、つまり、いつも勝つ側についていること。そして準備は十分にするが、始まった戦いはすぐ終えるようにしなければならない、ということである。

 (中華人民共和国や中華民国の略称として「中国」を用いるが、地理的、民族的、文化的、通史的な場合はシナ、つまり英語のチャイナに相当する語を用いる。元来、「中国」は東夷西戎北狄南蛮に対する語で、周辺の諸民族を獣や虫扱いした差別語である。)
 
 渡部昇一
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〈第1人目 「孫子」参考図書〉
「孫子・勝つために何をすべきか」
谷沢永一・渡部昇一共著
PHP研究所刊本体1400円
 

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