源頼朝が征夷大将軍となって鎌倉に幕府を開いたのは建久三年(西暦1192年)である。それから明治維新(西暦1868年)までの約七百年間、日本は武家政治の時代であった。
この武家政治を開いたのが頼朝であるから、日本歴史の上では特別に偉いリーダーであった。その前に平清盛がいたが、彼は武家から出世して宮廷人になってしまった。では、頼朝のリーダーシップはどこから出たのであろうか。
まず当時の「家門」という観念があったことを忘れてはなるまい。頼朝の父は左馬頭(さまのかみ)義朝であり、母は熱田神宮の大宮司藤原季範の娘である。義朝は源氏の氏神様みたいな八幡太郎義家の直系の曽孫である。つまり義家の長男の長男の長男である。つまり源氏の嫡流で最も家柄がよいのである。源氏の一門にとってはそれだけで仰ぎ見られる存在である。
頼朝の弟には蒲冠者(かまのかんじゃ)範頼とか、戦争の天才の九郎判官義経などがいたが、この弟たちは義朝の妾の子たちである。範頼の母は遠江国池田宿の遊女であり、義経の母は妾の常盤御前で、後に平清盛の妾にもなった女性である。一方、頼朝の母は、日本一の「武」の神社の大宮司の娘で正妻である。
現在のように妾(めかけ)の地位は低くなかったにせよ、母の身分は物を言う。リーダーには「家系」が物を言うことがある。ヨーロッパでも「敗けても王は王だが、王と戦ったものは勝っても敗けても叛逆者だ」と言われている。
また頼朝の兄には、平治の合戦に父義朝が敗れたあと、それぞれ別の死に方をした義平と朝長がいる。特に義平は、悪源太義平といわれる豪勇の者であったが、母は不明である。朝長も同じだ。つまり八幡太郎義家以来の源氏の嫡流は頼朝一人ということになる。
言うまでもなく頼朝は秀れた素質を持った大人物である。幸田露伴の名著『源頼朝』にもそのことがよく書いてある。しかし頼朝の権威が「源氏の嫡流」ということに基づくことが十分指摘されていないように思う。
源氏の武士たちの心情は「本家の嫡流」に向けられていたのだ。そうでなければ、戦争にかけては古今無双の天才で、実際に平家を戦場で滅亡させた義経が、頼朝の不興を買うと、源氏の武士どもがすべて頼朝についた理由がわからない。
今でも企業や組織では「名門の嫡流」が何となく組織の長に祭り上げられることがある。すると納まりがよいからである。その名門が「家」から学校に変わって、「一中→一高→東大」だったり、「(東京)幼年学校→陸軍士官学校→陸軍大学」だったりしたこともある。ヨーロッパ、特にイギリスでは名門が物を言う。企業でも財団でもその長になる人にはサーやロードの肩書きが重要である。アメリカでも目に見えにくいがそれがある。実力主義の時代には言い憎いことだが、リーダーシップの要件として考慮に入れておくべきことだろう。
もちろん頼朝の資質にも大リーダーとなるものがあった。その一つは「可愛げ」ということである。父の義朝が特に愛したのは嫡男ということでわかるが、平治の乱の後で、平家の捕虜になった時も、関係者はみんなその「可愛げ」なところに感銘して助命運動をしてくれているのだ。
たとえば平家の弥兵衛宗清に預けられている時、「小刀と板が欲しい」と言った。十四歳の少年が退屈して何か彫りたいのかと思ったら、頼朝少年は「父の四十九日も近いが何もできないので、卒都婆(そとば)を作り御仏の名を書いてとむらいたいのだ」と言う。
また宗清が知り合いの僧侶を呼んであげた時、頼朝は着ていた小袖を脱いでその僧侶の前に置き、「今はこれだけしか差し上げられないけど」と言って差し出した。おとなしやかな十四歳の少年のそうした振舞を見て宗清や僧侶も思わず涙を流したのである。
こうしたことが清盛の継母の池の禅尼をも動かして頼朝は助命された。大リーダーは子供の時の振舞が敵をも動かす「可愛げ」があったことに注意すべきである。「可愛げ」がなければ、さっさと首を斬られていたはずなのだ。
しかし武家の総大将になる人が「おとなしやか」とか「可愛げ」なだけでは十分でない。平治の乱で敗れて逃げる時、頼朝少年ははぐれて一人になった。それを見つけた落武者狩りの者たちが、子供とみて捕えようとした。そして頼朝少年の馬の口を取って抱き下そうとした時、頼朝は源氏重代の髭切丸の名刀を抜いてばっさりその男の頭を切り割った。次の男がまた馬の口に取りつくところを、その腕を切り落としたのである。その後に大伯父の政家がやってきて、一緒に父の義朝に追いついたのであった。
少年であっても、自分の馬に取りつく武者を二人まで直ちに切り捨ててその場を逃れたのだ。こういう気性を内に秘めて、しかも「おとなしやか」だったのである。激しい英気が表に出ず、普段は「可愛げ」のある少年だったところに、頼朝という人物の大きさを見る気がしてならない。
渡部昇一
「源頼朝」
山路愛山著
東洋文庫 平凡社刊
本体2300円