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人間学・古典

第7人目 「ナポレオン」

渡部昇一の「日本の指導者たち」

 ナポレオンが大リーダーであったことについて今更言うのもおかしな話である。その大リーダーがなぜ終わりを全うしなかったか。こっちのほうが参考になるかもしれない。
 先ず第一になぜナポレオンが最初の頃に勝ち続けることができたのか。これはなぜフランス革命が成功したか、ということにも関係がある。フランス革命で王様が首を斬られた時、周辺諸国はみなゾーッとした。周辺諸国はみな王様や皇帝がいる国ばかりだったからだ。そこでフランス革命を潰そうと各国は軍隊をフランスにさし向け、革命勢力を潰そうとしたのである。しかし成功しなかった。
 というのは革命を起こしたフランスの兵隊は徴兵による国民軍であるのに反し、フランスに攻め込んだ各国の兵隊は傭兵であったからである。徴兵と傭兵はどちらが強いか。それは断然、徴兵のほうが強い。
 徴兵の方は国家意識がある上に、逃げて故郷に帰るわけにいかない。逃げて帰ったら警察が待っている。
 傭兵の方は逃げることができる。逃げ帰って別の王様に傭われることもできる。これが革命フランス軍が強かった理由である。ナポレオンはこの徴兵による国民軍を指揮する天才だったのだ。
 徴兵に対しては指揮官は相当無理を要求できる。ナポレオン軍の行進速度は傭兵を持つ軍隊よりもはるかに速く、それで有利な戦闘をすることができたのであった。ナポレオンは「足で戦う」と言ったそうだが進軍速度が当時の常識を超えていたのである。
 第二に、はじめの頃の戦闘はそれほど大軍が衝突することはなかった。ナポレオンにしても三万五千人から五万人ぐらいの兵隊を率いて勝ちまくっていたのである。ナポレオンは天才的な頭脳で、末端の隊長の名前まで覚えていて、その固有名詞を使って命令を出せたという。直接に名指しで命令された将校は奮い立たざるをえない。
 これがナポレオンの勝利のもととなった重要な理由であった。しかしこの有利さがなくなった時に、ナポレオンは勝てなくなるのだ。最初からこの有利さのなかった海軍では、フランス革命軍は常にイギリスに敗れている。
 海の上では脱走兵が出ないから、革命軍の徴兵の方が有利ということはなく、指揮官と船員の熟練度と能力が物を言う。フランスにはネルソンに匹敵する艦隊司令官がいなかった。
 先ず第一に徴兵の有利さであるが、そのことは周辺諸国にもわかってくる。他の国でも徴兵をやるようになれば、フランス軍だけの有利さは消える。それまでの戦争は王様同士の戦争だったのに、フランス革命軍とナポレオンの出現で、ヨーロッパ中に国民軍が出来たのだ。国民軍VS国民軍の戦いの時代に入ってしまったのである。
 第二に、国民軍の時代になると、一つの戦場で戦う兵士の数も膨大になる。傭兵の時代なら王様の財布の都合で、そんなに大軍は作れなかったのに、国民軍の時代になれば話は違ってくる。ここに私の言う「蚤の原理」が働き出すのであるが、ナポレオンはそれに死ぬまで気付かなかった。
 「蚤の原理」とは何か。蚤は体の長さの五十倍ぐらいの距離を跳ねることができる。では猫と同じ形をした蚤を作ったら、やはり体の長さの五十倍も跳ねることが出来るか。馬の大きさの蚤を作ったらどうか。象の大きさの蚤を作ったらどうか。絶対に体の五十倍の距離を飛ぶことはできない。
 象の大きさにしたら身長の二倍の距離も跳べないであろう。マンガの世界なら象の大きさの蚤を画くこともできるが、実際に象の大きさの蚤を作ったら足が折れてしまう。跳ねるどころではない。
 軍隊の大きさもそうである。ナポレオンはあまりにも頭脳優秀であったために参謀を必要としなかった。
 せいぜい命令書を書く事務的なことをする将校とか、食糧などの調達をする兵站関係の将校がいたにすぎない。それでよかったのだ。ところがロシア遠征の時は、六十万近い軍隊を連れてゆく。三万の軍隊の時の二十倍である。大砲や鉄砲や将校の数を二十倍にすればよいというものではないのだ。「蚤の原理」が働くのである。どんな天才でもそんな大軍を一人で指揮し続けることなどできないのである。
 これに最初に気付いたのはナポレオンに最初の頃は敗けてばかりいたプロシア軍(ベルリンを首府とする北ドイツ軍)であった。ナポレオンのような天才に対しては、よく訓練されて、質の揃った将校群を作って対抗することにしたのであった。これが有名なドイツ参謀本部の誕生である。
 個々の指令官は天才でなくてもよい。十分検討された作戦を整然と実行できる将校団が重要なのである。ロシアから敗退したナポレオンは、直ちに五十万の大軍を率いて再びドイツへ進攻する。そしてライプツィヒ付近で五、六回戦う。
 いずれもその戦場では勝ったのであったが、ナポレオンの五十万の大軍は五万になっていて、パリに逃げ帰らざるをえなかった。プロシア参謀本部の作戦勝ちである。そのあとのパリ攻防戦でも同じ“テ”でやられ、エルバ島から復帰してからのワーテルローの戦でも同じ“テ”でやられ、ナポレオンはついにセント・ヘレナ島に流されて生涯を終えることになった。「蚤の原理」を誰かが教えてやるべきだった。

渡部昇一

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〈第7 人目 「ナポレオン 」参考図書〉 
「江戸のナポレオン伝説」
岩下哲典著
中央公論新社刊
本体700円

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