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人間学・古典

第4人目 「ビスマルク」

渡部昇一の「日本の指導者たち」

 ナポレオン以降のヨーロッパで、万人が天才と認めるリーダーはオットー・フォン・ビスマルクである。面白いことに彼が生まれた1815年(徳川11代将軍・家齋の文化12年)は、ナポレオンがワーテルローの戦いで敗れてセント・ヘレナ島に島流しになった年なのである。フランスのナポレオンが舞台から去り、ドイツのビスマルクがこの世の中に生れ出たのだ。
 ビスマルクが生れた時、ドイツは一つの国ではなかった。38の小さな王国や侯国に分かれていたのである。宗教改革の発生地であったドイツは、その後、三十年戦争という激烈な宗教戦争の主戦場となり、人口も四分の一とか五分の一とかになってしまった。
 カトリックとプロテスタントの諸侯は、そのうち殺し合いにうんざりして、1648年(徳川三代将軍・家光の慶安元年)に平和条約(ウエストファリア条約)を結んだ。
 その条約の根本方針は、「君主の宗教はその領民の宗教とする」という極めて非宗教的な取り決めであった。このようにしてドイツは38の小さな諸侯国が、しかも宗教が違う小国が市松模様(いちまつもよう)に入り混じって存在することになり、統一された国家ではなかったのである。
 日本にたとえてみると、幕末の頃、300諸侯と言われていたから大名の数はドイツの十倍ぐらいあった。国土の面積をほぼ同一とすると、日本の大名領を十個ぐらいずつまとめたのがドイツの38の小国ということになる。
 日本には大名の上に幕府があったが、ドイツにはそれがない。つまり秀吉統一以前の戦国日本に似たところがあった。しかしお互いに戦争していたわけではなく、フランクフルトに、こういう小国が集まって連邦会議を開いて相談し合って事をすすめようとしていた。
 そしてこのフランクフルト連邦会議を牛耳っているのはオーストリアであった。このような状況の時にビスマルクが政治に登場し、このフランクフルト連邦会議にプロシア代表の大使として8年間ほど活躍することになる。
 プロシア(プロイセン)というのはベルリン・ブランデンブルグを中心とする北ドイツの王国で、38小国の中では、南のミュンヘンを中心とするバイエルン(ババリア)王国と並んで、最大のものであった。
 ヨーロッパの真ん中にあるドイツが、このように多くの小国に割れているのは、周囲の大国たち—ロシア、フランス、イギリス、オーストリア—にとっては甚だ都合のよいことであった。
 ドイツが一つにまとまられたら周辺諸国はこわい。分裂させておくに限る、というのが諸大国の腹の中であった。そしてヨーロッパ中の誰も、ドイツの統一はありえないと思っていた。
 ところがフランクフルトの連邦会議に出ているうち、ビスマルクには一條の光が見えた。それは「ドイツ統一は可能である」という光であったが、それは、ほかの誰にも見えない光であった。
 逆に言えば、他の誰にも見えない光—生き筋—であったからこそ、ビスマルクは諸外国から大した邪魔を受けず、奇跡の如く、19世紀後半にドイツ帝国を統一することができたのである。
 これはある意味で信長の「桶狭間の急襲」にも比較されよう。天才的リーダーのみに見える「生き筋」が見えたのである。ではその「生き筋」とは何であったか。
 それはまずオーストリアの勢力をドイツから一掃することである。次いでフランスの勢力をも一掃し、アルサス・ロレーヌ地方を取り戻すことである。これによってドイツ帝国は建設される。そして戦争はヨーロッパ内で不要になる。そのためにはロシアと仲良くし、イギリスとの友好関係を維持し、この二国にはドイツのことに口出しさせないようにする。
 この基本方針が頭に出来あがると、彼は魔法のような外交手段と武力で、19世紀の奇蹟、ドイツ帝国建設に成功するのである。まずクリミア戦争(1854~56)ではロシアに恩を売る。この戦争はイギリス、フランス、サルジニアがロシアに対して行った戦いである。ビスマルクは断乎としてロシアに対して好意的中立を行い、ロシアに感謝された。
 次にシュレースウィヒ・ホルシュタインという二州をデンマークから取るためにオーストリアを誘った。そしてデンマークに勝つと直ちにその二州をプロシアのものにし、キール軍港も手に入れた。
 オーストリアは当然恨む。しかしオーストリアと戦う際にはフランスが口を出さないようにしておかなければならない。それでビスマルクはナポレオン三世と密約をする。「フランスが後にベルギーとルクセンブルクを合併する時はプロシアは反対しない」そしてオーストリア戦争の準備に全力をあげる。
 モルトケ参謀総長を鉄道会議の議長にして、兵員輸送が迅速確実になるようにしておく。そしてオーストリアを怒らせて開戦させ、7週間で完勝すると、一文の賠償金も、一平方メートルの土地もとらずに撤兵する。
 この早さと無欲さのため、どの国も干渉できない。そしてその一方ではドイツ国内の小国や自由都市を遠慮なく合併したが、ドイツ国内のことというのでどの国も口出しすることができなかった。
 次にフランスを怒らせ開戦させる。その時、フランスの「ベルギー・ルクセンブルグ合併案」をイギリスの新聞にバラしたので、イギリスはプロシアに好意的中立となる。
 オーストリアも敗戦した時に土地も金も取られなかったのでビスマルクに恩を感じている。ロシアも好意的中立。戦場では十分に準備したプロシア=ドイツ軍が圧勝。
 パリ郊外のベルサイユ宮殿でドイツ帝国成立の式典が行われる。1871年、つまり明治4年のことである。統一ドイツ帝国は明治政府よりも新しかったのだ。38小国を一つの大帝国にまとめる早さは正に奇跡としか言えないし、それはビスマルクのリーダーとしての天才を示す以外の何物でもない。 


渡部昇一
 

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〈第4人目 「ビスマルク」参考図書〉
 「ビスマルク」
エルンスト・エンゲルベルグ著・野村美紀子訳
海鳴社刊
本体10,300円

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