歴史の流れには、後世から見て分水嶺のように見えるところがある。水が東に流れるか西に流れるかでその後の川の姿はすっかり変わってしまうのである。たとえばアンデスの山の上で、東に流れた水はアマゾン川という大河になり、西に流れた水は名の知られない小さい川になる。わずかのところでその後の姿が大きく変わるのである。
徳川時代を開くもとになったのは誰でも知っているように関ヶ原の戦いである。家康軍の主力は真田父子に上田城で足どめされて、この決戦には間に合わなかった。
小早川秀秋という愚かな青年大名が石田三成を土壇場で裏切ったから家康は勝てたのだ。そうでなかったら、徳川時代でなく豊臣時代となり日本史の姿もうんと変わったことであろう。
徳川時代の関ヶ原の戦に相当するのは明治時代では何であっただろうか。それは慶応三年(一八六七年)十二月九日の夜から十日の未明にかけての会議、いわゆる小御所会議である。
幕末の騒動の結果、将軍徳川慶喜は将軍職を辞退した。いわゆる大政奉還・王政復古であるが、これは同じく慶応三年の十月二十四日のことであった。これから約一ヶ月半の後に、新しい明治政府の三つの職制を決めた。
今までの摂政、関白、征夷大将軍などの職制を全部やめにして、「総裁」つまり首相に当る人を一人・・・・この場合、有栖川家熾仁親王・・・と、十人の「議定」を置いた。
これは身分の高い公家五名と有力な大名五名から成る十人である。その下に「参与」を五名置いたが、これは「議定」よりは下であるが、有望な公家が主であった。この十六人と、大名の補佐役の家来数名・・・その中に大久保一蔵(利通)もいた・・・が陪席を許されて小御所会議が開かれた。
この会議には当時十五歳で、その年に即位された明治天皇が臨席しておられた。この会議はその意味では近代日本における御前会議の第一号であった。議論の中心は徳川慶喜をどうするかである。議論は土佐藩主の山内豊信(容堂)からはじまった。
山内の主張は「そもそもこの会議に徳川慶喜を加えないのが陰険で公平でない」ということであった。大名五人が加わっている「議定」には尾州侯徳川慶勝、越州侯松平慶永(春嶽)、藝州侯浅野茂勲、薩州侯島津忠義、それに土州侯山内容堂が入っているが、超大名である徳川慶喜がはずされていた。確かに山内容堂の言うように、陰謀によって徳川慶喜がはずされたという感じであった。
山内容堂の主張は堂々としており、正論とも言えるものであった。それで会議の空気は山内の意見に動いたのである。もしこの時に決を取って、多数決で決めるとしたら、圧倒的に山内賛成派が多く、徳川慶喜は新政府に残ったはずであった。つまり明治政府は公武合体の形になったわけで、その後の日本の姿も大いに違っていたはずである。
しかし幕府の勢力をどうしても一掃しなければならないと思っていた人物が二人と、それを支持する一人がいた。それは公家の岩倉具視であり、陪席者の大久保一蔵(利通)であり、彼の意見を支持する島津忠義であった。
山内は自分の議論に酔ってしまったようなところがあり、思わぬ失言をしたのであった。それは「年若い天皇を担いで、政権を盗み取ろうという陰謀ではないか」という趣旨のことを言ってしまったのだ。そこに岩倉が噛みついた。
「天皇が年若いことをいいことに、それを担いで政権を盗み取ろうという陰謀とは何たる言い草であるか。天皇は稀に見る英明な方で、王政復古の大号令を出され、今ここに出席しておられる。何たる無礼な言い方だ。」
天皇の前でこう言われては山内容堂もひたすらあやまるより仕方がない。本当は十分な言い分があったであろう。「明治天皇の王政復古の大号令は、慶喜が進んで大政奉還したからではないか」と言い返すこともできたであろうが、非常に失礼な言い方をしたため、謝らざるをえなくなってしまった。
これで議論の流れは一変する。大久保一蔵が見事なフォローをする。島津忠義が大久保の意見を支持する。これで公武合体路線は一変して討幕の方向に一挙に流れるのだ。公家の中には席を立ってこそこそ相談するものも出たが、岩倉は一喝した。
「ここには天皇もご出席しておられる。意見があったら全身全霊をこめてみんなに向かってのべるべきである。こそこそ席を立って私語すべきでない」。自分よりも身分の高い公家をも押さえてしまった。かくして公武合体論は討幕一本となり、約三週間後の鳥羽・伏見の戦い、さらに江戸開城とまっすぐに連なるのである。
岩倉は歴史の切所ともいうべきところで、名詮自性・・・名は本性を現わす・・・岩のように揺がなかった。後に西郷隆盛の征韓論も頑として受け付けず、そのため西郷は野に下ることになった。武士上りの維新の元勲たちも彼をリーダーとして仰いだのはそのためである。
渡部昇一
〈第8
「維新前夜の群像7」
残念ながら現在流通しておりません。
大久保利謙 著
中央公論新社刊
本体400円