自分が社長という地位にいて、人が、「ぜひ採用してください」と向こうから寄ってくるようになると、零細企業のときに人集めで苦労した経験があっても、つい「自社の立場が上、応募者が下」というような勘違いをしてしまうものです。
本来、同じ人間同士であり、上下はありません。こちらは優秀な人を求めており、応募者は自分の理想の職場を探しているという立場の違いがあるだけで、同等です。本当に立派な企業というのは、世間から超一流などと言われるようになっても、この基本原則を忘れることはありません。
「十八史略」には、こんな話があります。
殷(いん)を滅ぼした周(しゅう)の武王の弟で、実質的に周を治めていた旦(たん)という人物がいました。彼は周公と呼ばれ、武王を継いで王となった成王を補佐していたのです。
あるとき、周公の子である伯禽(はくきん)が、魯(ろ)の国の統治者として任地に向かうことになりました。赴任するにあたり、周公は伯禽にこう諭します。
「自分は高い身分であるけれども、面会を求める者があると、髪を洗っているときであっても髪を握って水滴をしぼり、食事をしているときであっても口の中のものを吐き出して会うようにした。それでもまだ天下の賢人を取り逃がしはしないかと心配している。お前も魯の国に行ったら、よく気をつけよ。一国の君だからといって驕り高ぶってはならぬ」
と。 いわゆる「握髪吐哺」(立派な人材を求めるのに熱心なこと)の教えです。
また、太公望(たいこうぼう)呂尚(りょしょう)が斉(せい)の国の統治者として赴任し、その5ヵ月後、周公のもとに政治の結果を報告に来たときのこと。周公が、
「どうしてこんなに早く成績をあげることができたのか」
と問うと、太公望は、
「私は斉に行ってから君臣の礼を簡単にし、斉の風習に従ったからでございます」
と言いました。これに対し、伯禽は魯に赴任した後、3年も経過してから周公のもとに政治の結果を報告に来ました。周公が、
「どうしてこんなに遅くなったのか」
と尋ねると、伯禽は、
「従来の風習を変え、君臣の礼を改め、服喪の期間も3年にしたため、報告に来るのがこんなに遅くなってしまったのです」
と答えました。周公はこれを聞いて以下の感想をもちます。
「後世、魯は臣下として斉に仕えるようになろう。すべて政治は簡単平易なものでなければ民は近づくことができない。平易にして民を近づければ、民は必ず政治を支持するようになるのだが」
周公旦は、高い地位にあっても決して奢ることなく、人が面会に来れば、洗髪や食事をやめてすぐに応対しました。また、政治のやり方にしても、民が理解しやすい簡単なものにすべきであるという考え方を持っていたのです。周公はなるべく相手の気持ちに沿うように心がける人でした。太公望は、赴任してわずか5ヵ月でよい成績をあげましたが、周公や太公望のように、
相手の気持ちに沿って行動する
ことこそ、成果をあげる早道と言えそうです。対顧客でいえば、「顧客第一主義」ということになります。大昔から優れた人はこのような思想のもとに行動していました。人を集める極意は昔も今も同じです。