リーダーとしての「ベンジャミン・フランクリン」
アメリカ合衆国建国の父として讃えられるベンジャミン・フランクリン(1706-1790)。彼が遺した自伝は、世界中で読み継がれてきた古典中の古典だ。新訳が出るにあたり、解説を書くことになった。改めて読んでみて、フランクリンのリーダーとしての凄さに舌を巻いた。フランクリンに見るリーダーの特質を今回を含めて3回に分けて論じることにする。
リーダーに「担当」はない。定義からしてリーダーは担当者とは異なる。特定の専門分野に閉じこもらず、成すべき目的を実現するためには何でもやる。自分の前の仕事丸ごとを相手にする。今日では「ジェネラリスト」というと専門能力がない凡庸な役職者のように聞こえるが、それは誤解だ。そもそも「ジェネラル」とは総覧者を意味する。ようするに「総大将」だ。フランクリンは言葉の正確な意味でのジェネラリストだった。
日本では、稲妻が電気であることを証明した偉大な科学者としてフランクリンは知られている。雷が鳴る嵐の中で凧を揚げ、凧糸の末端につけたライデン瓶(ガラス瓶と水を使い電気を貯める装置)で電気を取り出す命がけの実験が評価され、フランクリンはロンドン王立協会の会員に選出されている。
この科学史に残る偉業にしても、フランクリンにとっては自分の仕事のごく一部に過ぎなかった。現に自伝の中でも、この「フィラデルフィア実験」のエピソードは最後の方でごくあっさりとしか触れられていない。
積み重ねたのは「なんでも屋」のキャリア
フランクリンは「究極のジェネラリスト」だった。実業家にして著述家。政治家にして外交官。物理学者にして気象学者。どんな分野にも専門家がいる現代の基準からすれば、フランクリンの仕事の幅は異様に広く、その成果は驚くべき多方面にわたる。しかも、次から次へと「転職」したわけではない。同時並行的に異なる分野で活動し、多種多様な業績を遺している。
驚異的なオールラウンダーが生まれた背景には、彼の出自と発展途上にあった当時のアメリカの社会構造がある。当時のアメリカは発展途上にあり、イギリスと比べて遅れた国だった。フランクリンが務めていた印刷所では活字不足が頻繁に発生した。しかし、産業が未発達で分業による専門化が進んでいなかった当時のアメリカには活字鋳造業者はいなかった。そこでフランクリンは自分で鋳型を考案し、間に合わせの活字を造らなければならなかった。ほかにも、彫り物や印刷用のインクづくりから倉庫番まで、ありとあらゆる仕事を自分でやる「なんでも屋」としてキャリアを形成していった。
若き日のフランクリンは印刷業者として独立し身を立てることを志した。しかし彼には何もなかった。資金や設備や技能はもちろん、人材や顧客を獲得するためのネットワークもすべてゼロから自分の手と力でつくっていかなければならなかった。印刷工場を経営するようになると、すぐに新聞を発行している。メディアだけでなくそれに載せるコンテンツも自らつくる。記事が面白いと評判になり、フランクリンの新聞は多くの購読者を獲得し、発行部数は伸びた。これが印刷業にも良い影響を与え、好循環を生んだ。
探究心のすべてをつなげる威力
フランクリンの中ではすべての活動が分断なく連続していた。すべての成果が同じ一人の人物の探求心によってもたらされている。本人にしてみれば、どんな仕事をするときでもいつも同じことを同じようにしているという感覚だっただろう。フィラデルフィア実験もその一つだった。
フィラデルフィア・アカデミー(後のペンシルべニア大学)の創設にその好例を見ることができる。源流ははるか昔、印刷所を開業する以前に彼が組織した「ジャントー」というクラブにある。真理を探究したいという情熱にかられたフランクリンは、倫理や政治、自然科学に関してメンバーが書いた論文を発表し合い、議論する場をつくった。
ジャントーの活動は長く続いた。そのうちにフランクリンの頭にあるアイデアが生まれる。論文を書くためには何冊もの本を参照する必要がある。各人の蔵書をジャントーの会合部屋に集めておけば、全員がすべての本を持っているのと同じことになる。つまり、クラブのための図書館だ。
この経験から、より大きな公共図書館をつくろうという目標が生まれた。この目標はアメリカで最初の会員制図書館として結実し、これがフランクリンにとっての最初の公共事業となった。図書館は人々の知的活動の拠点となり、この延長上にペンシルベニア大学が生まれている。つまり、フランクリンによる大学創設は、功成り名を遂げた富豪の慈善事業ではなかった。彼の知的探求心に基づく活動が自然な流れがだんだんと大きくなった結果として大学が生まれている。
このように、フランクリンの成し遂げた成果はバラバラに生まれたのではなく、彼の探求心を中心にすべてがつながっている。ここにジェネラリストの究極の姿を見る。