最近「リベラルアーツ研究会」のメンバーとして、主に大学でのリベラルアーツ(教養)教育に関する意見交換の機会が増えた。近頃リベラルアーツという言葉がよく使われるが、トップクラスの米国の大学の場合をみても、学部の4年間でリベラルアーツ、すなわち全人格、全教養を身につけ、その後に法学、医学、経営学、化学などの専門分野を大学院で習得していくというスタイルが多い。
昨今は授業料高騰のおり、そんな悠長なことではなく、直ぐに実践に役立つことを学びたいという向きもあるようだが、エリート教育の真髄は、ヨーロッパでもそうであるようにまずは幅広い教養をつけることである。なぜ教養が必要とされるのか。
テクニカルな人材教育では、入口が示されたとき、効率よく出口を探すといった能力は養われるだろう。しかし、どこに入口があるのかを見つける感性、どうしてその入り口から入るべきかを思索でき、何故今その入り口から入る必要があるかといった歴史観をもつなど、最も重要なことを感じ取り、考え、決断する能力は基礎となる教養が身についていなければ覚束ない。
私たちの周囲にも、優秀なのだけど随分トンチンカンな人がいる。リーマンショックをひきおこした人達は優秀だったかもしれないけれど、人間として根源的なところで何かが欠けていた。つまり教養の部分に問題があったと言えないだろうか。今後必要とされるリベラルアーツは、この混とんとした世界を見通していく、最先端の社会的問題に切り込んでいく基礎的な素養となっていかなくてはならない。
東京大学大学院法学部教授でローマ法が専門の木庭顕氏は、教養を身につけるには古典を原語で読むことが必須であるとする。
例えば、英国ではオックスフォード、ケンブリッジが大学の巨頭だが、いずれもギリシャ、ローマ等の古典を徹底的に教える。古典を原語で厳密に読みこなすことで、批判力、自由な精神、社会との距離感などを学ぶ。社会で言われていることを鵜呑みにしないようになる。いいものに触れさせることで、問題を感じる感性を育むことができるし、最もよい文学を読ませることが倫理教育になると主張する。
別の専門家は戦前の旧制高校のように読書三昧に加え、寮生活での徹底的な議論で教養が身につくという。
混とんとした世の中、先が見通せない経済状況であるだけに、経営者、後継者には是非とも「教養」を身につけさせたい。優秀な取締役、社員がいればそれなりの経営・管理は可能だろう。でもそれだけでは生き残れない世の中である。大方針を打ち立てる経営者には入口を見つける能力、つまり教養という大きな、しかもつかみどころのない素地が不可欠なのである。
榊原節子