IT技術の革新
AI(人工知能)技術の加速度的な進展に象徴されるようにコンピュータ技術の革新は目覚ましいものがある。その目を見張る技術発展を支える要因の一つが半導体を使った記憶媒体(フラッシュメモリー)の開発で、これは日本人の開発チームが成し遂げた。
筆者は1970年代の半ば、ある事務機器商社でオフィスコンピュータと呼ばれた中小企業向けに開発された経理専用の小型マシーンの営業に関わっていた。大きさは事務机サイズで、伝票発行、売掛、買掛管理、日計表、月計表の集計を担う画期的な事務機器だった。プリンターとディスプレイも装備されていたが、漢字フォントはまだ開発途上で、英数字、カナの打ち出ししかできない。データの記憶媒体は下敷きほどの大きなフロッピーディスクを、袖引き出し部分に2−4枚セットして使った。今なら一台10万円を切るノートパソコンの機能には遠く及ばない代物だ。それを一機700万円から1,200万円の価格で営業した。その後のダウンサイジングと低価格化は驚くもので、隔世の感がする。
かぎを握るのは、LSI(高度集積回路)化が進む半導体を、記憶媒体としてどう埋め込むかだと、当時の社内研修会でも教えられた。
不可能に挑戦した男
転機をもたらしたのは、升岡富士雄(ますおか・ふじお=現東北大学名誉教授)が率いる東芝のフラッシュメモリ開発チームだ。
升岡は、1971年に東北大工学部を卒業して東芝に入社する。当時東芝は、半導体メモリーの開発に傾注していた。DRAMと呼ばれるコンピュータ作業の記憶を一時的に記憶する半導体回路だ。DRAM部署に配属された升岡は失望した。彼が開発したかったのは、電源を切っても永遠に記憶を残すフロッピーに代わる半導体記憶媒体だった。社の方針で「将来性はない」として却下され升岡は営業、製造現場に回された。回路の設計には自信があるが、問題は採算性、つまりいかにコストをカットし、データ処理の高速性を確保するかにあった。
9年後、ようやくフラッシュメモリーのアイディアが通り、開発責任者を任される。だが上げ潮ブームのDRAM開発(80年代半ばは、世界シェアを独占する東芝半導体の主力製品となる)の陰で、10人のメンバーは、事実上の窓際部署で回路設計の研究開発を続ける。
升岡がたどり着いたのは、回路設計図の縮小だ。無駄を省いて、設計図を小さくすればするほど、設計図を印刷する一枚の基盤ウエファーから生まれる製品は増える、コストが下がるという発想だ。
技術的な細部は省くがこういうことだ。データを記憶し、記憶を書き換えるためには、個々のデータの格納場所に番地を振って処理するのが常識だったが、升岡案では、書き換える記憶データを大区画で一括してよその大区画にコピーし、書き換え前のデータを一括して消去すれば、番地のためのデータスペースを減らせるという発想だった。
これによって大幅なコストカットが実現できる。技術職を干された形での営業経験が、「安くなければ売れない」という技術者にとっての新常識を育んでいた。
米国企業インテルが着目して製品化
1984年、升岡はこの新発想に関して自信を持って学会発表した。しかし、国内で一括書き換え、一括消去の持つ重大な意味を理解するものはなかった。社内でも無視されて製品化の動きは出なかった。
ところが、即座に反応した米国企業があった。半導体大手のインテル社だ。同社もフラッシュメモリーの開発を進めていたが、価格の圧縮に難航していた。インテルは、東芝と半導体開発に関して相互特許利用契約を結んでいた。升岡に「試作品を至急送れ」の連絡が入る。インテルはさらにコストを削る改良を加えて、量産体制に入った。
「インテル入ってる」のCMで知られるようになったフラッシュメモリーは、こうして世界標準になる。今では、USBメモリー、携帯電話、デジカメ、ICカードまで、社会のあらゆる場面で使われているのはご承知の通りだ。この画期的な半導体製品の登場で、フロッピーばかりか、一世代前のパソコンの内部で高熱を放ちながらウンウンと回っていた記憶ディスクも姿を消した。
「技術者バカ」という言葉がある。しかし、根っからの技術者の升岡は、コスト意識を重視して新製品技術を完成させる。これに対して東芝経営陣は、好況にわく目の前のDRAM事業に目を奪われて経営判断を誤り、未来の巨大市場の可能性を見落としてしまったのである。
(この項、次回に続く)
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考資料
『躍進フラッシュメモリ 半導体ファイルの先兵』升岡富士雄著 工業調査会Kブックス

















