【意味】
人間の命は、本来は真の自己が主役であるべきだが、肉体の欲望が増すと仮の自己が主役になる。
【解説】
江戸時代前期に活躍した盤珪禅師(バンケゼン ジ:臨済宗)に
「幼児が次第次第に知恵つきて 仏に遠くなるぞ悲しき」という歌があります。
天真爛漫な赤子の心も成長するに従い次第に知恵がついて、快楽の味を覚え欲望が生まれます。
快楽は繰り返しにより麻痺しますから、次なる刺激を求めてより大きな欲望の情念が育ちます。
やがて何時しか本来の己(真己)は消え去り、欲望の仮面をかぶった肉体の己(仮己)が我がもの顔で居座ることになります。
仮己・真己に関する多くの名言がありますが、以下の三つを紹介します。
一つ目は27講でも取り上げましたが、一斎先生の「終年都城内に奔走すれば、自ら天地大なるを知らず」です。
自己領域の狭い視野に埋没して、こせこせした 行動をするなという教えです。
物事の見方は、肉眼と心眼の二通りがあります。肉眼は遠くを見たり外国に出掛けたりすれば視野が広がります。
しかし心眼は眼に映る実体がありませんから、 見えない物を洞察力により見ることになります。
この句にある「天地大なるを・・」も肉眼の視野の外にある世界を心眼で見るということです。
二つ目は、般若心経262文字の中の「観自在菩薩」という言葉です。
この句は一般的には「観自在菩薩様」の固有のお名前として捉えます。
しかし私は、観⇒気付く、自⇒自分に、在⇒存在、菩薩⇒菩薩のような優れた才能(真己)・・と解釈し、
全体的には「菩薩様のような優れた才能が、自分に存在していることに気付く」と捉えます。
自分がスーパーマンと同様の才能を有しているという解釈です。文字に即して素直に読めばこの解釈が妥当です。
素晴 しい才能を秘めた自分(真己)であると気付けば、ワクワクした痛快感を覚えます。
三つ目は、臨済宗の開祖の臨在義玄禅師(リンザイギゲンゼンジ)の
「赤肉団上に一無位の真人あり。常に汝らの諸人の面前より出入りす。いまだ証拠せざる者は、看よ看よ」という言葉です。
赤肉団とは赤い血の流れた肉体(仮己)、真人とは天真爛漫な本当の自分(真己)です。
「自分の命の主人公である真人が、ここに居るぞと額の前で盛んに叫んでいるにもかかわらず気付かない。
誰を主人公と間違えて尽くしているかといえば、いつの間にか宿借り主のように居座った欲望主(仮己)である。」
だから「この状態に気付かない盆暗どもは、坐禅をしてしっかりと自分を看よ!看よ!」と義玄禅師は声高に叫ぶのです。
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本然の真己あり、駆殻の仮己有り。
杉山巌海